コリントの信徒への手紙講解

49.コリントの信徒への手紙二5章11-21節『キリストの愛が迫り』

5章11節から6章10節にかけて、和解のつとめとしての使徒職をパウロ自身が如何に受けとめているか述べられています。

パウロは、使徒のつとめを、「和解のために奉仕する任務」(18節)である、と述べていますが、「和解」という言葉は説明を要します。「和解」という言葉は、普通、敵対関係にあるものが仲直りする時に用いられます。お互いが歩み寄って、仲直りして、平和な関係で互いに生きていくことを約束して、和解が成立します。「和解」というのは、一つの取り決めです。それは自動的に成立するものではなく、「和解」には、そのために努力する者の果たす役割が大変大きいのです。和解を成立させていく上で大きな障害となるのは、互いの間にある敵意、憎しみ、怒りの感情です。その敵意、憎しみ、怒りという感情が取り去られないと和解は実現しません。これらの感情は、相手から自分に対して悪いことをされたという経験をしたものが抱く感情です。一方がその様な悪を行なうことがあって、それに対して敵意、憎しみ、怒りが込み上げてくるのです。ですから、悪いことをしたと思う者がそれに気づいて、その敵意を取り除くための努力をし、自分に向けられている敵意、怒りをその人に取り去ってもらわないと、真の意味で和解は成立しません。

パウロはこの「和解」という言葉を、人と人との間の争いではなく、神とわたしたち人間との間にある問題として語っています。18節では、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」といわれています。これは、神が私たちに大きな敵意、憎しみ、怒りを抱いていたことを示す言葉です。

神はその様な感情を抱く理由あったのです。その理由は、19節において、「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく」と述べられています。神がわたしたちに敵意、憎しみ、怒りをもたれる原因が、わたしたちの罪にあることがここにはっきりと示されています。

しかし、罪の問題は、神信仰の根本にある問題でありますから、聖書において教えられている神と人との関係を十分に知らない人にとってはわかりにくい問題です。創世記の2、3章に、神によって創造された最初の人アダムとエバのことが書かれています。神は、エデンの園に住まわせたアダムに、エデンの園のどの木の実からもとって食べてよいが、園の中央にある木の実だけは取って食べてはいけない、それを食べると必ず死ぬ、と言われました。しかし、アダムとエバは、誘惑する者の言葉を神の言葉よりも大切にし、神に背き罪ある者になりました。このエデンの園の物語は、極めてシンプルに罪の問題の本質を明らかにしています。つまり、人間は神に造られた者として、神の栄光を表す器として相応しく生きるために、神に似せて「神のかたち」に造られた存在で、神の意思が示された御言葉に聞き従って生きるなら、神は命の道を永遠に約束する、という神の意思が示されていたのです。しかしアダムとエバは、神の意思を第一とせず、自分が神のようになれるという誘惑者の言葉に聞き従い、神に背く罪を犯したために、神の怒りの下に死すべきものになったということを明らかにしています。

ですから、わたしたちがたとえ自覚的にこの約束を知らなくても、アダムは全人類を代表して、神の契約の下に立っていましたので、わたしたちは、いつも、自分の意思ではなく、神の意思である神の言葉に聞くことを第一にして生きているかどうかが、問われているのです。だから、教会の礼拝に出席して、神の言葉を聞きますが、神はわたしの下に立ち帰りなさい。という呼びかけを絶えずしておられるのです。
わたしたちが神に対して罪を犯した、その事に対して神は大変怒り、その責任を問われる。パウロはここでそのような罪の問題を語っているのです。その罪に対する責任が取られないと、和解は成立しません。それに気づかないで罪を犯し続けているわたしたちは、神の怒りをますます大きくして生きている存在であるということになります。

しかし、それに気づかないで神に罪を犯し続けているわたしたちのために、キリストはわたしたちに代わって「和解」を実現してくださった、とパウロは告げています。わたしたちに代わってなされた「キリストの業」を、わたしたちの業として勘定して、それで十分だと判断して、神はわたしたちに向けておられる敵意、憎しみ、怒りを完全にしずめ、「和解」してくださったといわれているのです。再び、敵意を抱くことのない、完全な平和が実現したということが、ここで語られている「和解」という言葉が持っている意味です。

使徒は、キリストがわたしたちのために実現した和解の言葉を伝えるつとめを委ねられた者です。ですから、このつとめを持っている人を受け入れるということは、キリストを受け入れることであり、キリストの実現してくださった和解を受け入れることになり、神の和解を受け入れることになる、反対に、使徒を拒むことは、神の和解を拒むことになる、とパウロは言っているのであります。

キリストがわたしたちのためになしてくださった和解とは、どのようなものでしょうか。21節で、パウロはこう言っています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」、と。「罪と何のかかわりもない方」は、直訳すると、「罪を知らない方」となります。つまり、罪を一つも犯さない方、罪のない方に、わたしたちの罪を取り除くために、罪を背負わせ、神は御自分の法廷で、その方を罪あるものとして審き、そして、罪なき方の義をわたしたちの義と勘定して、罪あるわたしたちを義なるものであると見なすことによって、私たちに向けられていた罪への敵意、怒りの感情を静められ、これで和解成立の判決が下された、というのです。

「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」とパウロは言っておりますが、罪を知らない方、罪を一つも犯さなかった義なる方を、わたしたちのために罪とするということは、その方をわたしたちに代わって、罪ある者として裁くということです。その審き、刑の執行が、十字架の死であったとパウロは告げているのであります。

本当は赦されるはずのない、死んで当然であると思われる罪人には、それにふさわしい報いを与えるべきであるのに、その者に向けられるべき怒りを、神は御自分の愛する独り子キリストに向けられたというのです。キリストがわたしたちに向けられるべき怒り、罪の呪いを一身に受け取り、十字架の刑を受けてくださったことによって、わたしたちに向けられるべき神の怒りは完全に消し去る、そういう救いを実現してくださった、とパウロは告げるのであります。

14節にそのことが語られています。新共同訳のここの訳は良くありません。14節は13節で述べた理由を説明する言葉として訳しているのは間違いではありませんが、14節を三つの文章に分けて訳してしまったため、パウロが一番言いたいことが全然伝わってこない訳になっています。ここは原文では一続きの文章になっています。二番目の「私たちはこう考えます」というところは、分詞形です。「…と判断する時」と訳すべきところです。

竹森満佐一先生は、ここは、「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と判断するわたしたちに、キリストの愛が迫ってくる」、と訳すべきだと提案しておられます。また、ルターは、「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と判断するかぎりにおいて、キリストの愛が私たちに強く迫ってくる」と訳しています。竹森先生は、逆に言えば、その様に判断しないかぎりキリストの愛は迫ってこない、ということになるであろう、とⅠコリント1章18節以下の注解において、Ⅱコリント5章14節の翻訳にふれて述べておられます。Ⅰコリント1章18節というのは、「十字架の言葉」について述べられているところです。

「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と判断するわたしたちに、キリストの愛が迫ってくる」というパウロの言葉は深く噛み締めないといけません。結局、わたしたちの信仰生活、教会生活というのは、この言葉をどう噛み締め、受けとめていくかによって全く違ったものになります。

「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と判断する」この信仰の受け止め方の重要さを、パウロは強調しているのであります。「ひとりの人」とは、主イエスのことです。イエスの十字架は、「すべての人のための死」、「人々の罪の責任を問う」(19節)死です。イエスは「人々の罪の責任を問われて」十字架で死なれた、それがイエスの十字架の意味です。そこにわたくしの罪の責任問われ、わたくしの死があります。キリストは、本当は死ぬ必要のない方であったのです。本当に私の罪のために死んでくれたということを、理解し納得たなら、そのことを生涯忘れることなく感謝するものとなるでしょう。

ここで語られているのは、キリストの破格の愛です。それは、自分に向かって罪を犯し続けているどうしようもない人間の命を救うために、自分を犠牲にして助ける話です。自分の子供のために命を犠牲にする父親はいます。しかし、自分に罪を犯す人のために自分の命を犠牲にして身代わりとなって救う愛を、人間は知りません。しかし、神はそうしてわたしに向けられるべき罪への敵意、怒りを取り除かれたというのです。こんな狂気染みた話は、人間には考えられません。

だからパウロは、13節で「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであった」といっております。「正気でない」は、原文に忠実に訳せば、「エクスタシーの状態にある」です。エクスタシーというのは、存在から引き離される状態を表す言葉です。それほどの思いを経験する。正気では聞けない体験を聞く、それが福音を聞くわたしたちの驚きの体験です。それを真剣に本当にわたしのこととして受けとめますと、福音は大変な驚きであります。

しかし、「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と判断するわたしたちに、キリストの愛が迫ってくる」とパウロは言います。イエス・キリストにおいて神がなしてくださったことを、わたしたちのために本当にしてくださったと判断する、そう信じるなら、それは、神の愛以外の何ものでもないと、わたしたちの心に強く迫ってくるとパウロは言っているのであります。ジーンと心に熱く迫ってくるキリストの愛は、その心から失われることはありません。心に深く深く刻み付けられ、その愛がわたしという人間を新しい存在に変えて、生き方を変えていく、そういう出会いが十字架の福音、和解の福音を聞いた人間が体験していくということです。

この素晴らしい福音、キリストの愛があなたに向けられていることを知って、この救いを与えてくださるキリストを信じ、神に生きるものとなるよう、神はあなたを招いておられるのであります。

新約聖書講解