コリントの信徒への手紙講解

46.コリントの信徒への手紙二4章7-15節『この土の器に』

いろんな挫折や希望を失う状況に立たされているものにとって、8-9節のパウロの言葉は、目と心を釘付けにします。挫折と失意の中にある者は、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」という強い心が持てることをいつも願っています。失望なき力強い信仰生活が一体あるのだろうか、そんな力強い精神を持つ人間に一体誰がなり得るのか、どんな鍛練によってそれが可能なのか、そういう興味や感心でここを読み進むと、それは見事に裏切られます。しかし、その様な期待は裏切られても、それ以上の素晴らしい慰めと力によって、人を立たせるパウロの言葉がここに語られています。

「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」といっているのは、使徒であるパウロ自身です。しかし、パウロは「わたしたちは」ということによって、それはわたしだけでなく、使徒である「わたしたち」みんなそうであるといっているのです。では何故使徒はそう言いうるのか、それが7節において述べられています。行き詰まりのない、途方に暮れても失望しない、そんな強さは、自分たちに与えられている「宝」のゆえです。「土の器」とは、人間一般を指して言われている脆さ、はかなさではなく、使徒たちのことを指して言われています。とりわけパウロ自身を指して言われています。使徒とされている人間は、それ自体、脆さ、弱さを持つ存在です。しかし、その脆い「土の器に」「宝」が「納めて」あるといいます。

宝とは何でしょう。使徒職であるという人もいます。福音、あるいは6節の「神の栄光を悟る光」であるという人もいます。そのいずれも相互に関連が深いものですから、いずれででもあると理解できます。いずれにせよ、「宝」はパウロの努力や力によって獲得したものではない。神から与えられた恩恵です。ですから宝のもつ力を、パウロは「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでない」といっています。使徒とされた人間は壊れやすい、朽ちていく「土の器」でしかない。しかし、神のものである「並外れて偉大な力」を与えられている。そのような「宝」を内に納める存在である。それが、使徒は人間の力から出たものではなく、神からのものであるということを人々に明らかにするために、「土の器」であることが役立っている、とパウロはいっているのであります。

使徒の弱さの中に、かえって神の力が働き、それによって使徒は絶望と破滅の中から守られているというのです。パウロは3章7節以下において使徒職の栄光について述べてきました。しかし、使徒の生の現実は、人間が想像するものとはまったく逆のものです。困窮、迫害、苦難、屈辱の連続です。それは、ユダヤ人やギリシャ人が期待した「しるしや奇跡」を行なう力ある宣教者の姿とまったく違うものです。パウロは、彼らの期待するものとは全く違う、使徒像を示すことによって、彼らが間違った使徒職の理解をしていたことを明らかにしています。使徒職の特質についてパウロは、4章5節で、教会に「仕える僕」であると述べています。

その姿はキリストの姿と一体のものとして理解されております。ですから7節の「土の器」としての使徒の姿もキリストの姿と一体のものとして語られています。宝と器、栄光と苦難、これらはキリストが世と対立する関係に立たれたことと対になって語られています。

人間は土の塵で造られたと、創世記にあります。そして、キリストは神の御子でありましたが、己を虚しくして、わたしたちと同じ人間性、滅ぶべき肉体をとられたことを聖書は明らかにしています。キリストご自身が「土の器」を纏われ、その中にご自身の栄光を現されたのです。

10節でパウロは、「わたしたちは、いつもイエスの死の体をまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」といっています。人間の肉体を纏われた救い主「イエスの死の体をまとっている」のが使徒であるとパウロはいうのです。「いつも」といわれています。ある時だけそうだというのでありません。8節の「四方から」は、直訳すると「いたるところで」となります。それが10節では「いつも」といわれ、11節では「絶えず」といわれています。使徒の生涯は、「生きている間、絶えずイエスのために死にさらされている」(11節)生涯である、とパウロは言っているのです。

それは、使徒職にある自分の生涯を悲観して言っているのでありません。「イエスの命がこの体に現れるため」であり、「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため」という希望の中で語られています。

「イエスの死を体にまとう」ところの「土の器」としての使徒パウロは、イエスの体がまさしく世の攻撃、迫害、苦難にあって、ついに十字架において打ち倒され滅ぼされます。しかし、神はこの土の器をまとわれたイエスを復活させ、それによって栄光を現されたのです。イエスの「土の器」が正に神の栄光の器となったのです。使徒は、土の器となって神の栄光を現された「イエスの死を体にまとって」生かされることを喜んで生きている存在である、とパウロはいっているのです。イエス・キリストは、己を土の器とし、低く謙って僕として人を救うために仕えられました。パウロはその主イエスの死を、使徒としての自分が体にまとう光栄を信じているのです。パウロは、「イエスの命がこの体に現れる」のを信じているから、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」ということができたのです。

使徒としてのパウロが死ぬことがあるとすれば、それは、イエスの死の苦難が自分の体において継続して起こるからであります。使徒という職務がキリストから委ねられたものであるなら、それは信仰の論理で見るなら当然の帰結です。

パウロにとって苦難とは、この弱い人間が死ぬことであります。しかし、その苦難は、克服と勝利を力強く約束する「イエスの命が現れるために」という言葉の下に置かれています。すなわち、苦難の目的は、イエスの復活と神的生命が地上のパウロの苦難と死の中に現れることにあります。

肉が死ぬ時、神によるイエスの復活の生命がその肉において現れます。それゆえ「イエスの死を体にまとった」「土の器」としての使徒の苦難は、必然性を持ち、「いつも」「絶えず」という性格を持ちます。使徒の身において起こらねばならぬ死の過程は、キリストの復活の命が現れるためのものです。肉体の死を抜きにした復活というのはありません。イエスの命に向かう過程は、だから必然的に、苦難を通っての、神の栄光のための厳しい戦いを通ってのみある、ということになります。そのことをパウロは知っていますから、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8,9節)というのです。こうした苦難にも終わりのあること、すなわちそれらに滅ぼされることのないイエスと共に復活させられる(14節)という勝利に終わることを知っているからです。

パウロがここで語っている苦難は、「イエスのゆえ」のものです。イエスを信じ告白するがゆえに迫害され、軽蔑されるのです。ですから人間が普通の生活の中で味わうところの「苦痛」、病気などを通して味わうところの苦しみのことではありません。そのような苦難が決して取るに足りないといっているのでありません。しかし、イエスの苦難は罪人の罪を救うための苦難です。正に罪の世がその救い主を認めず、わたしたちが犯した罪の当然の報いとしての死を、引き受け、自らの肉体を通して味われた苦難です。それがイエスの十字架です。使徒パウロに起こる死の過程は、その様なイエスの死というものを前提にしてはじめて、その苦難の意味が与えられ、復活の希望と結びつきます。

キリストは、古い世の死ぬべき肉のただ中でよみがえり、神の生命をにない、新しい神の世界をもたらすものとなられました。使徒の命と働きがこれと結ばれて、滅ぶべき古い世の中でなされる限り、同じ復活と、神の生命の担い手として、新しい神の世界をもたらす、「土の器」となりえます。

今、人間の普通の生活で起こる病気などによる苦痛と、使徒の苦難とは違いますが、キリスト者がその信仰の歩みの中で味わう病気などによる苦難には、同じ希望が与えられています。もし人がその病を通して、主の十字架の意味を知り、キリストの十字架と復活がこのわたしの罪と弱さを担い、このわたしのためのものでもあったという信仰が与えられたなら、その苦難の中でも失望せず、希望と喜びを持って生きる勇気を与えられます。

キリストの「土の器」性と使徒の「土の器」性とが同質のものであるなら、それは、すべてのキリスト者の持つ「土の器」性とも同質であるということができます。

キリストの栄光が使徒の弱さに現され、そしてまた、わたしたちの弱さを通して現されます。わたしたちは弱い時にこそ強い、神の恵みと栄光が「土の器」において現されることを信仰において知っているから、いたるところで苦しめられても行き詰まらないのです。途方に暮れても失望しないのです。虐げられてもキリストはわたしたちを見捨てられないことを知っているので、心を強く持つことができます。十字架の主が打ち倒されても滅びず復活なさったように、わたしたちは主イエスと結びつけられているので、打ち倒されても滅ぼされないのです。

パウロは、詩編116編10節(ギリシャ語訳聖書)から「わたしは信じた、それで、わたしは語った」(13節)という言葉を引用して、その言葉を語って旧約の聖徒と「同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます」といっています。神において成し遂げられる未来の復活に絶えず目を注いで、信じて生きる。苦難はその希望に生きる出発点に過ぎない。その希望の中で絶えず見つめることができる信仰を与えられているからこそ、その希望を語ることができる。その希望に生きないものはその様に語れません。しかし、パウロはその希望に生きているので、語らざるを得ないのです。やめよといわれても語ることを止められないのです。お願いだから止めてくれといってもやめられない、人を本当に救い立たせるのはこの福音しかないと信じているから、止められないのです。神が語れというから止められないのです。

「霊と信仰」が一つであるのは、神の霊が人間に信仰を起こす働きをしているからです。信仰は黙っていることはできないのです。神は信仰に沈黙することを命じたのではない。「土の器」の弱い人間に復活の希望の信仰を与え、その喜びの中で苦難を生きる力を与え、語らしめるのです。神はその様に使徒を立たせ、わたしたちを復活の証人として立たせてくださるのです。

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、「わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださる」だけでありません。わたしたちを豊かな恵みに与らせて、「感謝の念に満ちて神に栄光を帰す」器として変えてくださっています。その様に変わりうるのは、「土の器」に納められている宝の力によります。それは、福音の力であり、それを信じる信仰の力であり、またその信仰を起こす聖霊の力です。それらを通してわたしたちの中に生きておられる主イエスの力です。わたしたちは、このような素晴らしい力に満たされた使徒から福音を受け、使徒に働いた同じ力を受けているのです。使徒の信仰と同じところに立つ者に、神は、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」信仰の力を与えてくださるのです。

新約聖書講解