コリントの信徒への手紙講解

42.コリントの信徒への手紙二2章14-17節『キリストの香り』

2章14節-7章4節にかけてパウロの使徒職の弁明がなされています。2章14-17節は、その導入部に相当します。ここでの主題は、「福音の勝利と前進」です。パウロは、二つのことを強調しています。第一は、「キリストの勝利の行進」に連なる使徒としての「自分」と、同じく使徒の宣教によって生み出された「教会」の光栄についてであります。第二は、「キリストの香り」としての使徒としての「自分」と、同じく使徒の宣教によって「キリストの香り」とされている「教会」の光栄についてであります。

「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」てくれたとパウロは述べています。

「キリストの」は正確に訳せば「キリストにあって」です。パウロは、自分を「キリストにあって」勝利の行進に連ならせて下さった神に感謝しています。パウロはⅠコリント15:9-10において、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と述べています。パウロは、神から受けた恩寵をいつまでも忘れず覚えている人間でありました。だから、14節の「神に感謝します」というパウロの言葉は、かつて神の敵であったにもかかわらずキリストの勝利に与らせられている恵みを抜きに理解することができません。

キリストにおける勝利とは、十字架の死と復活に他なりません。死すべき罪人であったものがキリストの十字架と復活を通して、死から命に入れられる恵みに与る恩寵のことです。神の都への凱旋者にされているパウロの喜びと感謝が心から表されています。しかし、その喜びと光栄に与ったのは、パウロだけでありません。「わたしたち」とパウロはいって、キリストの福音に与っているすべての人に、この恵みに与っている事実を示しています。この福音に与るすべての者に、「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連なせ」てくださいます。

14-16節は、勝利を収めて戦場からローマへと凱旋する将軍の行進を念頭に置いて記されています。勝利を収めた将軍は行進の先頭に立ちます。パウロはその凱旋将軍の姿を神に見たてています。ローマ軍の将軍は都ローマに凱旋しますが、神の兵士である私達の凱旋する場所は、神の都である天上です。その先頭にキリストがおられ、神はわたしたちを恵みによって選び、「キリストにあって」その勝利の凱旋者にしてくださっています。

ローマにおいては、勝利を収めて戦場から凱旋する将軍を迎えるために「香」をたく習慣がありました。それは、兵士たちには勝利を祝う喜びのかぐわしい香りでありました。しかし、その行列には戦いに敗れた敵軍の兵士も捕虜として加えられていました。彼らの中にはこの行進の後、処刑される者もいました。そうした者にとって、この香は死の香りでありました。パウロはこのローマにおける習慣をイメージしながら、このところを記しています。

神は、「わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」とパウロは述べております。「知識の香り」とは、使徒であるパウロが、宣教を通して明らかにする神に関わる知識であり、信仰に対する比喩的な表現であります。日本語に「キリストを」と訳されているところは、原文は単に「彼を」であります。これは直接には「神」を指しますが、実際上は、キリストにおいて神を知る知識が与えられるのでありますから、新共同訳のように「キリストを知るという知識」という訳は適切です。

パウロにとっては神を知る道は十字架にかけられたキリストを他にしてありえませんから(Ⅰコリント1:18、23-24、2:2)、パウロはここで木にかけられて死なれたキリストが同時に復活された方であるという、その福音の逆説を開かれた心・信仰で捉えることを、パウロは「神を知る知識」という表現に盛り込んで説いているのであります。

パウロは元ユダヤ教のラビでありましたから、その伝統も心得ていました。ラビの伝統によれば「知識と真理」は律法にあるという理解がありました。しかしパウロはその理解に対して、キリストにおいて神の「知識と真理」とが具現・体現せられているのを見据えています。キリストの十字架に表されたのは、神の正義です。罪ある者を徹底的に裁く神の正義です。キリストはわたしたちの罪を背負い十字架に死なれたので、わたしたちの罪ある古き人はそこに死んだのです。しかし、キリストはまた律法にしたがって神に対するまったき服従を果たされました。神の義を満足させる義を打ち立てられたのであります。そこで神はこのまったきものを死者の中から復活させることによって、神の義と愛を明らかにされたのです。パウロがキリストにおいて見た神の「知識と真理」とは、キリストの十字架の死と復活にあますところなく明らかにされているのであります。

使徒とは何であるか、パウロは即座に、キリストにおいて現されている神の知識と真理とを告げ知らせるものである、と答えています。だからパウロは自分を「キリストの香りである」と告げています。パウロはここで二つのことを同時に述べています。第一に、「キリストを知るという知識」そのものがキリストの香りである、ということと、第二に、そのような知識を持つものは既に「キリストの香り」の存在とされているということを述べているのであります。

ローマの凱旋将軍を迎える沿道にたかれた香りは、勝利者にとっては勝利の喜びと命を実感する香りとしての意味を持ちました。しかし、その行進に捕虜として加えられた敗軍の将にとっては、その香りは死を実感する香りとなりました。パウロはこのイメージを用いながら、「キリストの香り」が分かつ二つの面を語っています。

「キリストを知る知識」は救いの道をたどる者と、滅びの道をたどる者とを分かちます。そして、「キリストを知る知識」を持つ使徒の宣教の業がその働きをなすのです。いずれにせよ、「キリストを知る知識」を提供される者が、それを信じるか否かによって、「キリストを知る知識」を自らの滅び、すなわち死から死に至らせる香りとするか、あるいは自らの救い、すなわち命から命に至る香りとするかを分かつことになるとパウロは宣言するのであります。

死か命か、それを分かつのは「キリストを知る知識」です。その香りをかぐ者がそれに委ねて生きるかいないかが、それを分かつことになるのです。キリストが十字架において神に生きるために己に死に、その後、神の愛顧に与り復活の命を獲得されて天に凱旋されたように、キリストの福音は、これを聞く者に、これを信じ神に委ねて生き己に死ぬことを求めます。

パウロはここで問うております。「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」と。人に福音を告げ知らせる「キリストの香り」としての使者、使徒の務めを担うにふさわしい人間とは一体誰なのか。パウロはそう問うているのであります。

当時コリントには、自分は神の言葉を伝える使者だといって、実際には「神の言葉を売り物」にして、人に気に入られるように人間の言葉を混ぜて伝えていた偽使徒がいました。「神の言葉を売り物にする」とは、神の言葉を語ることによって金銭を得ることを意味していました。パウロは人からそのような嫌疑もかけられました。しかし、パウロは、11章7節以下で弁明しているとおり、「神の福音を無報酬で告げ知らせた」のです。

しかし、パウロは無報酬であることが使徒としてふさわしい絶対の条件であると言いたいのでありません。むしろ、強調は最後の言葉にあります。「誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語る」というところにあります。「誠実」と訳されているエイリクリネイアというギリシャ語は、「純粋」とか「真実」を表し、1章12節においても用いられています。パウロはここで、1章12節を強く意識しながら語っています。「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました」と、良心に誓って語ってきたパウロが、「誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」。「神に属する者」は直訳すると「神から出た」です。「キリストに結ばれ」は直訳すると「キリストにあって」です。使徒というのは、自分が神から選ばれ神から出た者であるという召命感がその職務を支える最終的な拠り所となります。だから、「神から出た」者として、「神の御前で」、「キリストにあって」、キリストの福音を「純粋、真実」に曲げることなく語る、それのみが、その務めを全うしうる唯一の道であることをパウロは示しているのであります。その様な使徒だけがキリストの香りと呼ばれるにふさわしい、とパウロは語るのであります。

これはわたくしたちにとって大きな警告となります。真の使徒的・聖書的な教会とは何か。それは、神の言葉を売り物にするような人間的な言葉を加えたりせず、あるいは都合のよいように割り引いて語らない、神の言葉を神の言葉として純粋・真実に、「神から出た」とおりに、「神から出た者として」「神の御前で」「キリストにあって」語る御言葉の役者をもつ教会であることです。御言葉を語る者はこの言葉の前に立ち止まり自己検証が求められます。果たして自分は、「神から出た者として」生きているか。「神の御前で、キリストにあって、純粋に福音を宣べ伝えているか」常に自己吟味が迫られます。

そして、信徒は、その御言葉を取り次ぐ者が神の言葉を純粋・真実に語っているなら、その者を「神から出た者として、神の御前でキリストにあって」受け入れ、その言葉を純粋・真実に神の言葉として聞く態度が求められています。その様な姿勢で臨む教会を、神は「キリストの芳しい香り」を放つ教会として受け入れ、祝福してくださるのであります。

新約聖書講解