コリントの信徒への手紙講解

26.コリントの信徒への手紙一12章12-31節『キリストの体なる教会』

パウロは、教会をキリストの体である、と語っています。キリストを人間の体にたとえ、キリストがその体となられる共同体としての教会について語るのは、特別な事情が背景にあったからです。それは、コリントの教会の中に、自分は特別な「霊的賜物」を所有していると言って誇り、他の人々を軽視する言動を繰り返す人々があらわれて、教会の一致を乱していたからです。

人間の体には、一見、不要と思われたり、弱く見えたり、見苦しいと思われる部分があっても、体の各器官はそれぞれ有機的に機能しています。そのように、キリストに結びつくどの一人も教会にとって不可欠な存在として意義を与えられています。パウロはそのことを強調しています。

しかし、そのことを強調するあまり、「賜物」を軽視する教会とならないように注意することも大切です。賜物のゆえに人を軽視する教会も、人を重視し平等を重視するゆえに賜物を軽視する教会も、どちらもよい教会とは言えません。

このところの議論の理解で重要なのは、12節と31節の意味を正しく理解することです。12節は、教会の一致と多様性の関係を論じ、一致を前提としつつ多様性を論じているのでしょうか。あるいは多様性を認めた上でその一致を論じているのでしょうか。議論の流れからすると、キリストにある一致を前提として、多様性における一致を語っているということができるでしょう。

31節で、「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と締めくくられていますので、「賜物」についての狭い理解を戒め、教会の積極的な理解と賜物を求めることの必要性が強調されていることを理解することが大切です。

賜物の重視による人の軽視も、人の重視による賜物の軽視も、根は同じ所から来ています。いずれの見方も、人の集まりとして見ていこうとする教会観であるからです。しかし、そういうものの考え方で教会が形成されたとしても、それは、果たして「キリストの教会」であると言えるか問題です。

27節で、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とパウロが述べていることは、特別重要な意味があります。教会に、どんなに才能豊かな立派な人間が集まっていたとしても、キリストから離れた目的でその才能を用いていたのでは、それは教会とはいえません。また、キリストを抜きにしたどんなに親密で互いを思いやる素晴らしい人間関係がそこにあったとしても、それも教会とは言えません。

では、教会が「キリストの体」であるということと、信徒一人一人がキリストの体の「部分」であるということが、どのようにして成り立ち、どのような意味で言われているのでしょうか。

これらの点を理解する鍵になる言葉が13節、18節、28節にあります。これらの節は、いずれもキリストの体を形成する神的起源を明らかにしています。

早速13節から見ていきたく思います。ここで鍵になる言葉は「一つの霊」という言葉です。12節までのパウロの議論から、聖霊は「イエスは主である」という信仰と告白を導く働きをしていることがわかります。そして、信徒一人一人に賜物を分け与える働きをしていることが明らかにされました。そして、ここではこの同じ「一つの霊」が、人種・身分を超えて一つの体なるキリストの教会を構成させるため、洗礼と聖餐に与らせる働きをなしていることが明らかにされています。聖霊がキリストの救いの業とそれを証する宣教を離れて働くことはないことは、この議論の前提となっています。キリストが人種・身分・性の違いを超えてあらゆる人をご自身の体に与らせるようとしておられるその意思を、聖霊は適用していく働きをしておられるというのです。洗礼は、十字架に死なれたキリストと一体とされて死に、その死を潜り抜けて復活されたキリストと一体とされて復活させられる、という恵みを「印章」する礼典であります。実際、キリストを信じ洗礼を施されたものが、キリストになるわけでありません。

しかし、キリストがその者を御自分のものとしてくださり、御自分の体として認知してくださり、その恵みの全てに与らせてくださる、それが洗礼において表されている「しるし」としての一番大切な意味です。そしてそれは、単なる「しるし」に留まるものでなく、「一つの霊によって…霊を飲む」という言葉において表されているように、現実に「イエスは主である」と告白した者をキリストの体に与からせるのは聖霊の力であります。

ですから、キリストの体となるよう有機的につなげているものは、聖霊の力と働きです。人間の持つ何かが重要な役割を果たしているのではなく、聖霊の力と恵みに与っていること、それが信徒一人一人をキリストに結び付け一つの体とする不可欠の要因であることが第一に明らかにされています。

次に見ておきたい第二の鍵になる言葉は、18節です。ここで「神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」といわれています。キリストの体を構成する一人一人、その一人一人が持つ賜物の価値を決めるのは、人間の目でありません。それは、どこまでも神のなさることです。そのことが18節において明らかにされています。人の目にどんなに弱く見える部分も、恰好の悪いと思える部分も、見苦しいと思える部分も、「体に一つ一つの部分を置かれた」のは、神であることがはっきり言われています。各部分をそのように置かれたのであれば、神がその位置に適材適所であるという判断を神が下しておられ、その一つ一つを神が必要とされている、ということが同時に意味されています。それゆえ、キリストの体を構成する各部分は互いが配慮し合う関係にあります。そのように機能し合うことが要請されています。わたしたち一人一人がキリストの体を構成し一体として教会が成り立っているわけですから、体の一部が痛めば、その苦しみは体全体に及ぶように、教会全体に及びます。

その意味で26節の「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです」というパウロの言葉は重く受け止める必要があります。これは、ローマ書12:15の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とともに、喜びと悲しみの共感を教えているように見えますが、ここでの強調はそれとは異なります。一つの部分の苦しみが全体の苦しみとなるという一体性の方に強調が置かれています。その全体とはキリストの体にほかなりませんから、キリストご自身がその苦しみを共に覚えておられるということもできます。体が一つだということは、そういう深さで捉えられています。

人の苦しみや喜びを共感するといっても、そんなに簡単にできるわけでありません。病気の苦しみ、死の苦しみを共感するとっても、それがどんなに難しい問題であるかがヨブの物語を見ても分かります。

しかし、その苦しみを当人しか理解できない体の苦しみとして、その共感・共有の問題として、ここで語られています。そのことが非常に重要です。わたしたちは、その苦しみを自分が現実に味わったならどうなるか、というところまで見ていかないと、本当の苦しみの共感はできません。しかし、それは現実には不可能です。しかし、その苦しみをそのような深さで味あわれたただ一人の方がいます。それは、主イエスです。教会はキリストの体です。キリストが一人一人の苦しみ、喜びを共感しておられます。わたしたちも、キリストの体を構成している一人として、キリストの苦しみを共感する存在にされています。この事実を知るとき、教会の本当の理解が生まれ、本当の一致が生まれます。そこから、互いを重んじ、大切に思い合う共同体として、教会があらゆる境涯の違いを乗り越えて一つとなって纏まっていくのであります。

第三に鍵になることばは、28節です。教会の中にいろんな人を立てるのは神です。教会に与えられている様々な職務や賜物を用いられるのは神です。教会の権威と力の源はすべて神にあります。神がいろんな人に賜物を与え、職務を与えておられる、この神の召しに対する信仰を持つことが大切です。その信仰を教会が欠くなら、教会は単なる人間の集団と化します。教会を立てる神の権威を重んじる、そこに真実の教会が立ち上がっていく真の力があるのであります。

これら三つの節(13節、18節、28節)は、教会はキリストの体である、その事実を作り上げているのは、人間の知恵や力や働きによるのでなく、聖霊であり、神であり、キリストご自身である、ということを明らかにしています。

教会がもし多様性に満ちているとするならば、それは聖霊の持つ豊かさ、神の豊かさに由来します。そうであるなら、その多様性が教会の一致を乱すなどということは考えられません。だから、教会は賜物に対して消極的な態度をとるべきではなく、むしろ、熱心に求めるべきであります。

そして、神の賜物は、神がお立てになられる教会の職務にふさわしく与えられていることが、最後の段落で述べられている大切な点です。教会に与えられている賜物と職務の中で、御言葉に仕える職務にその優先順位が与えられていることにも注目すべきです。その優先性を重んじながら、教会に与えられている多様な賜物を大切にし、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努める教会となることが求められています。

「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努める」とは、どういうことでしょうか。それは、自分自身を神の恵みの器として用いられるよう、キリストの体なる教会に仕えるものになりたいという信仰を持って、具体的な教会の働きの中で、そのような者として相応しく奉仕できるものとなりなさいということであります。

新約聖書講解