コリントの信徒への手紙講解

8.コリントの信徒への手紙一3章1-9節『成長させる神』

今日の御言葉は、神の畑、神の建物としての教会について語っています。畑というのは、農作物を育てるためにあります。野菜を育てるのに必要なのは、種をまき、水を注いで、太陽の光の下で成長させることです。パウロは、教会が畑のように成長する存在としての神の畑であると言っています。最初から神についての正しい知識を持ち、キリストの救いを知っている人はいません。パウロのように福音の種をまく伝道者がいなければ、まことの神への信仰、キリストへの信仰が育ちません。そして、その成長のために、わたしたちの信仰として知らなければならない知識があります。神の建物としての教会を建て上げていくに必要な知識、知恵を学ぶことであります。わたしたちの教会では、教理学級、成人学級、各会の例会等を通じて、個人の信仰と教会の信仰の成長のための学びをしていますが、これらの学びは、教会の成長のためになくてならないものであるという理解から行っています。

神が与えてくださっている恩恵の手段の意味をよくわきまえないと、肉の思いで、色んな教会成長についての考えが教会に持ち込まれることになります。そして、ここで言われているように「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」という分派争いが生じることがあるのです。それは宣教の内容である福音理解の欠如にあると前に語りましたが、ここでは、福音を宣べ伝える宣教者の働きに対する無知にあることをパウロは明らかにしています。

私たちの救いにおいて重要なのは、第一に、徹底して神の(所有する、啓示する)救いに関する知識を持つことです。そして、第二に、それをもたらす福音の使者である使徒が何であり、何でないかを正しく知る知識を持つことです。パウロは使徒に対する正しい理解の欠如が分派を生むもう一つの重要な原因となっていることを、指摘しています。教会を建てる土台は第一に福音とその理解です。第二に、その福音をもたらす働きに対する正しい理解、教会とその職務に対する正しい理解です。この二つは車の両輪の関係にあります。どちらを欠いても、教会は教会として健全な姿で建っていきません。それゆえ、教会の信仰はいつまでも成長することはありません。肉の人として、いつまでも人間的な判断によって、教会の指導者を見、分派争いは続くことになります。

そこでパウロは、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か」と問い、「この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」と答えています。「仕えた者」は、ディアコノイですから、「奉仕者」です。パウロもアポロも人を信仰に導くために主から召された「奉仕者」であるといわれています。「奉仕者」は誰に仕えるかというと、それは、自分を召した方、つまり神に対してです。神はこの奉仕者それぞれに「分に応じて」ふさわしい賜物と働きをお与えになるのです。彼らはその分に応じた賜物により、働きにつくことが求められているのです。奉仕者に求められていることは、忠実さです。召し給う神、主に仕えることです。どんなに優れた賜物を持つ使徒、伝道者と言えども、召し給う神から離れてその職務を全うすることができません。主から与えられる賜物を抜きにその職務をまっとうできないのです。そしてそれは、自らがキリストの教会の主人としてではなく、どこまでも奉仕者としてその職務をまっとうできるだけであります。そして、彼は自分の哲学思想を教会において広めることを務めにしているのではありません。使徒・伝道者・牧師の奉仕者としての務めは、キリストに対する「信仰に導く」ことにあります。彼はそのために、ただそのことのためにだけ召されているのです。

そして、この使徒であるパウロとアポロとは、同じ賜物を持ち、同じ働きを求められたのではなく、二人とも賜物も働きも異なっていました。しかし、この二人の賜物と働きはいずれも、「信仰に導くために」必要なものとして、神から与えられたものです。それは、ふたりにとって多すぎることもなく少なすぎることもない「分に応じて仕える」のにふさわしいものでした。

大切なのは、彼らが何をなしたか、何をなしうるか、ではなく、彼らを用いようとなさる神の意志です。彼らが自分の意志で何になろうとしているかではなく、神によって何にされているかです。神の召しと賜物と働きは、人により異なります。召す方が一つであることは、働きや賜物の多様性を否定するものでありません。また、働きや賜物の多様性は、その優劣をあらわすものでもありません。

パウロはその与えられた賜物、働きによって、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」といっています。同じコリントの教会で、二人は異なる時に、異なる働きをしたことを認めます。「しかし、成長させてくださったのは神です」と語ります。どちらの働きも神に用いられ、神に認められ、神によって成長させられたと語っているのです。どちらの役割がより重要で、よりすぐれているかという比較、優劣は、この際全く重要でありません。「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」という信仰をもっていることです。奉仕者の働きを支配し、その上に働いている力と恵みは、神から来ます。教会は神の所有に属し、神の力によって成長するのです。人間である使徒の力、能力ではありません。使徒は奉仕者にすぎません。彼らはどんなに神を知る知識を与えられていても、その知識を生かしその働きを実らせるのは、神ご自身です。パウロはコリントの信徒たちに向かって「あなたがたは神の畑」ですと語っています。教会は神の畑だといっているのです。使徒であるパウロとアポロとは、この神の畑を耕す農夫として召された者であるというのです。パウロは植える役をし、アポロは水を注ぐ役を果たしたというのです。二人は、その畑の所有者である神のために働く者でしかない。しかし、神はその二人の働きを用い、それ通してご自分の畑を成長させて、収穫の実りを刈り取られるのです。成長させる神の働きなくして、パウロの働きも、アポロの働きも報われることがないのです。

だから、彼らがその働きを誇ることはできないし、その信奉者が「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」と言って分派争いすることも、まことに愚かなことになるというのです。人を誇る教会の伝道は、キリストの教会を建てることはできません。人の結びつきによる人間の教会が建てられるだけで、そこに神の救いと神にある喜びと平安はありえません。成長させる神の力と、神がその成長のために教会に御言葉を宣べ伝える職務を与えた人を敬い、従わない教会に成長は期待できません。

しかし、どんなに貧しい賜物の乏しい伝道者といえども、彼の神に仕える働きの上に神が働き、神が教会を成長させてくださる、ここに希望があります。

そして、この成長させる神のもとに、「植える者と水を注ぐ者とは一つ」であり、「神のために力を合わせて働く」ところに、キリストの教会にふさわしい教会的な宣教の姿があります。賜物も働きも異なる御言葉の役者が「一つとなって」「神のために力を合わせて働く者」として、協同して教会を一緒に建て上げていくことができる。神はそのどちらの伝道者にも、ご自身のために力を合わせて働くことを願っておられます。そのように違う個性と賜物を持つ同労者が一緒になって働くことができるのは、互いに神の召しを認め合い、自分たちの力ではなく、成長させる神の力によって教会が成長させられるのだという信仰が与えられる時です。

教会の中で分裂と争いがあるのは、第一に、福音理解の誤りから生じます。そして、第二に、教会の職務に対する誤解から生じます。教会を建て成長させる神を見ない誤った信仰こそ、教会に無用な分裂と争いを生む温床となります。

教会を現す英語のチャーチもドイツ語のキルへも、ギリシャ語のキュリアケーという言葉から来ています。それは、「主の所有に属する」という意味です。教会の主は、キリストです。教会の主であるキリストの所有の下に使徒は、その奉仕者、農夫として神の所有する畑で働くのです。成長させるのは神です。しかし、教会は彼らの主から与えられた異なる賜物を用い、「一つとなり」「力を合わせた」奉仕によって、立てられていくのです。神の教会を成長させる働きに彼らの奉仕を神ご自身が必要としておられるのです。神がそのどちらの奉仕も必要とし、重んじておられるのに、教会の信徒たちが、その奉仕に優劣をつけたり、どちらかの奉仕を軽んじるようなことがあるとしたなら、それは、その奉仕者を軽んじているのでなく、その人を用い給う神ご自身を軽視し無視することになるのです。神の畑である教会は、これらの農夫である奉仕者を必要としているのです。教会は成長させる神の力と、神に用いられている農夫としての説教者、御言葉の役者の働きを正当に評価していくことが大切です。そして、教会を牧会する牧師は、教会を自分の教会と思ってならないのです。教会はどこまでも神の所有に属し、牧師は4章1節でパウロが言っていますように、キリストに仕える者として、「神の秘められた計画を委ねられた管理者」として、忠実にその務めを果たしていくものであります。

教会が主の所有に属するという理解、教会を成長させるのは神であるという理解があるところには、分派のない、成熟した大人の信仰を持った教会の成長を期待することができます。

「パウロとは何者か。アポロとは何者か」この問いは、コリントの教会に向けられた問いとして止まり、私たちに無関係なのではなく、常にわたしたちにも向けられている問いであります。この問いに対する、パウロの答えを真摯な態度で聞く教会に、成長させる神の恵みは豊かに与えられるのです。いつもそのような教会であるよう努めましょう。