コリントの信徒への手紙講解

7.コリントの信徒への手紙第一2章6-9節『この世の知恵ではなく神の知恵で』

ここでパウロが語ろうとしているのは、「この世の知恵ではなく、また、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもありません。」「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」と言っているのでありますから、その知恵の言葉は、「十字架につけられたキリスト」にかかわるものです。

この知恵を誰に語るかというと、「信仰に成熟した人たちの間では」と言っています。ギリシャ語の本文には、「信仰に」はありません。「成熟した人」は、「完成した人」とか「完全な人」と訳すこともできます。この表現は、パウロの論敵で、すでにコリントの教会の中にも影響を与えていたグノーシス主義者を意識して、彼らの主張、考えを用いています。パウロは、彼らの考え方の中に入っていって、それを用いて、自らの議論に説得力を持たせようとしているのです。しかし、その用語を用いているからといって、パウロはその考えを受け入れているわけではありません。

グノーシスとは「知識」という意味です。グノーシス主義者は神的世界の知識を分有する者として、自らを覚知者と呼びました。そして、人間を3種類に分けて評価しています。ソーマティコイ(肉的人間)、プシュキコイ(生起的人間)、プニュウマティコイ(霊的人間)にわけました。プニュウマティコイは、グノーシスを持つ人間で地上的世界から解放された完成された人間であると理解するのです。

パウロが、10節以下また3章において、「霊の人」と「肉の人」を対照させている言い方をしているのも、彼らを意識した言い方です。しかし、パウロのいうプニュウマティコイ(霊的人間)と、グノーシス主義の言うそれとは、内容においては全く異なるものです。

知識の完全さ、完成ということに関していうなら、それは元来、神の側にのみ存在するものでありますから、人間は自らの力でそれを手に入れることは不可能というのがパウロの理解であります。

ですからこの知識は神が啓示してくださるのでなければ、誰も知ることができません。その理解の道を神が開いてくださらなければ、わたしたちは、神の知恵を知ることができません。だから、パウロはこの点に関して人間の知恵の無力を主張します。4節で語った「“霊”と力の証明」を、10節以下において、神がご自身の完全な知識を、ご自身の“霊”の働きによって、一切を明らかにする、と述べています。

ですから、パウロがここでいう「霊的な人間」、「完全な人間」というのは、その人間が自らのうちに持っている神的な知恵の力を磨くことによって到達するという前提に立って、そのことを期待して、その人に向かって「知恵を語ります」といっているのではありません。

しかし、パウロは、「成熟した人たちの間では」といって、コリントの信徒たちが「神の力」、聖霊によって、そうなることを期待してこれらのことを語っています。パウロは3章で、コリントの信徒の多くが「霊の人」ではなく「肉の人」の状態のままであると述べています。お互いの間で、妬みや争いがあること自体が、「肉の人」であることを物語っていると述べています。

パウロは、コリントの信徒たちに「霊の人」「完全な人」になってもらいたいという祈り、期待を込めてここに手紙を記しているのであります。この世の知恵、この世を支配する者の知恵は、「滅びゆく」、やがては失われるものであるといいます。ですから、この世の知恵によって人を「霊の人」とすることも「完全な者」とすることもできない。これがパウロの論法です。

パウロは7節で、人を「霊の人」「完全な人」にするのは、「隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」であると述べています。

ここにパウロは、非常に重要なことを三つ語っています。

1.世界の創造される以前から定められていた、神の神秘としての知恵
2.それは、キリストにおいて明らかにされ、それゆえに、使徒である「わたしたちが語る」ことのできるものである、ということ。
3.この知恵は、「神がわたしたちに栄光を与えるために」示されている

1.世界の創造される以前から定められていた、神の神秘としての知恵

パウロが語る知恵は、「世界の始まる前から定められていた」ものであるゆえに、世界を超えたものです。この知恵は、神だけが保有する神の神秘に属するものです。神が啓示されない限り、この創造された世界に属する者には知ることのできない「神秘」として止まる知恵です。しかし、この知恵を誰に与え示すかも、神は、「世界の創造される以前から定め」ておられたというのです。ではどのようにしてそれはなされるのか、9節でイザヤ書からの引用によって明らかにしています。といいましても、それは、いくつかの聖句を組み合わせての引用です。それによって人の考え及ばないような仕方で、その知恵を準備し、知恵を示しその者に栄光を与えるために、なされたということが暗示されているだけです。それ以上のことは記されていません。

しかし、ローマの信徒への手紙8章28節から30節には、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」と記されています。

世界が始まる前から定められていた事柄とは、神は前以て知っていた者たちを、御子にあって選ぶということです。

エフェソの信徒への手紙1章3節以下にもキリストにある選びについて述べられています。

このように世界の始まる前に定められた計画がキリストにあって選び、御子の贖いに選ばれた者に与らせるという恵みが語られています。

2.パウロが「わたしたちが語る」と述べている隠された神秘としての神の知恵の内容の第二は、キリストにおいて明らかにされ、それゆえに、使徒である「わたしたちが語る」ことのできるものである、ということです。

神の知恵は、キリストの十字架と復活において示され、わたしたちに理解できるものとされています。キリストの十字架と復活をわたしに神がしてくださった救いとしてその意味を正しく理解するなら、わたしたちは、この神の知恵を理解する完全な者となる道が開かれています。

しかし、この知恵は、ルカ福音書10章21節で主イエスご自身の口で、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と語られています。それは、この世の知恵を誇る者に対してではなく、幼子のように信仰をもって、これを受け入れる者に示される神の知恵です。この世の支配者が、もしこの知恵を理解していたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう、とパウロは述べています。

3.この知恵は、「神がわたしたちに栄光を与えるために」示されている

この「栄光」は、イエスが十字架、復活において示されたものです。だから、わたしたちには、イエスの十字架と復活において、その栄光を見る信仰が求められています。イエスにおいて明らかにされた神の知恵、栄光は、神が私たちに与えようとしておられるものです。イエスが私たちと同じ肉のからだをもって世に来られ、その朽ちる肉のからだが朽ちない霊の体に復活し、そのからだをもってイエスが栄光の天におられるということは、わたしたちには希望です。パウロは、この手紙において、わたしたちは、それに与ることができるという約束を語っています。それが今なお約束として語られている限り、神がわたしたちに与えるといわれる栄光は、依然として、まだ完全には実現していないものである、というものでもあります。しかし、イエス・キリストにおいて既に実現した救い、その栄光から見る時、その約束の確かさをわたしたちは、信仰の目ではっきりと見、知ることができます。わたしたちになお見えないところがあるようにされているのは、これをわたしたちが信仰の目で幼子のようにそれを見、知るようになるためです。しかし、この知恵は、どこまでも「神がわたしたちに栄光を与えるために」示されているのです。