コリントの信徒への手紙講解

6.コリントの信徒への手紙第一2章1-5節『神の力によって』

キリスト教信仰というのは、イエス・キリストにおいて表された神の愛を知って、そのことを知らずに生きていた自分がいかに高慢な生き方をしていたか、という反省、神に立ち帰って生きることによって、はじめてわかる信仰です。そのことをよく理解していないと、いくら教会に来ていても、何かを誇る、信仰によらない古い人間性がいつも顔を表してきます。コリントの教会において起こった分派問題は、まさに、人間の言葉、人間の知恵を誇ることから生じる争いでありました。しかし、それは、パウロが心を砕いて宣べ伝えた福音の内容からはかけ離れたものでありました。パウロはここで、「神の秘められた計画を述べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」、と述べています。

キリストは、神に背いて己のために生きていた者の罪を背負い、その罪に敗れて生きていた者を救うために、十字架を背負われたのであります。それは、わたしたちに代わって神の裁きを受けるためであります。罪を一つも犯されなかった神の御子がわたしたちの罪を背負って裁かれることによって、神に背いている者に対して向けられるべき神の怒りが、もはや私たちに向けられることがないようにしてくださったのであります。神はそのようにしてわたしたちに対する愛を示されたのであります。神は、その十字架の福音の内容にふさわしく、世の知恵あるものではなく、能力や家柄の良いものではなく、むしろ、世の無力な者、無学な者、身分の卑しい者が、神の救いへと召され選ばれた、とパウロは述べているのであります。神はその様にして誰をも誇らせないようにされたのだと、パウロは述べているのであります。

そして、もう一度、ここでで、コリントにおいて行った自らの宣教の業が、ただ十字架につけられたキリストのみを宣べ伝えることにあったことを述べているのであります。

1節の「秘められた計画」というのは、ムステリオンというギリシャ語が用いられています。英語のミステリーに相当し、「秘密」とか「奥義」という意味です。つまり、これがミステリーであるという意味は、二つの点で考えることができます。第一に、それは、人間には知らされていなかったこと、理解できないこと、という意味です。第二に、ミステリーの内容は、パウロが宣べ伝えたところの、「キリストの十字架」自体にあるという意味でそう言われている可能性があります。第二の可能性の場合は、人間の知恵でこれを理解することができないという意味になります。ここでは、パウロはこの第二の意味において、ミステリーであるといっています。

パウロは、このように述べることによって、自らが宣べ伝えるべき「福音の内容」によって、福音の対象が世の知者に対してではなく、世の「愚かな者」に向けられることになった理由を説明しているのであります。そして、さらにこの「福音の内容」は、これを宣べ伝えるパウロ自身の宣教のあり方を限定してしまうものとなっているとパウロは理解したのであります。それは理解という段階にとどめることを許さない、「心に決めて」臨むべきものとしてしまったというのであります。「心に決めて」という言葉は、裁判において「判決を下す」という場合に用いられる言葉です。パウロは自らの宣教のあり方について、判決を下すことを求められたのであります。十字架の言葉は、それほど深くパウロの全人格を支配するものとなったのであります。パウロは、自分が宣べ伝える福音の恵み、内容の素晴らしさに圧倒されたのであります。人間のどのような知恵をもってしても及ばない神の深い知恵、救いの恵みに圧倒され、この恵みの言葉を人間の知恵でどのように説明しても説明できないものであると知らされたのです。同時に、その様な手段による説明は、福音の内容をむしろ伝えるのに妨げとなり、捻じ曲げる危険性すらあると思わされたのであります。

第二コリント5章14節は、直訳すると「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と判断するわたしたちに、キリストの愛が強く迫ってくる」となります。「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と判断するわたしたちに、キリストの愛が強く迫ってくる。」これがパウロの十字架理解、パウロの福音理解です。そして、この言葉の裏には、パウロの復活理解があります。キリストの十字架において、すべての人が死んだけれども、その死んだ人はその様に自らの死を判断したのであれば、キリストの復活もまた、その様に判断するすべての人のためのものであったと理解し、その様に判断するすべての人は、キリストと共に復活の命にあずかっていると理解する、その信仰にキリストの愛が迫ってくるのを覚えるのであります。

パウロは、この恵みに毎日圧倒されているのであります。十字架の言葉以外に何も知る必要を感じなくなっているのであります。だから、「あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」とパウロはいうのであります。

パウロは決して知識の乏しい伝道者ではありません。また、知識は人には不要であるという反知識主義者でもありません。ことキリストの福音を宣べ伝えることに関しては、「キリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」というだけであります。キリストの価値の絶大さのゆえに、圧倒する十字架の恵みを知る価値のゆえに、ほかに何もいらないと判断させられたのです。

しかし、それほど大きな恵み、神の力に圧倒されていたパウロですが、3節で、「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と言っています。正しい福音理解、信仰があれば、キリスト者は何の恐れも、疲れも知らない強い人間になるといえば、心強いかもしれませんが、パウロはそうはいっていません。パウロは、心身の衰弱も、恐れも、不安も知る伝道者でありました。主に三度も肉体の刺を取り去ってくださいと祈らねばならないほど、体を痛めつけられる苦しみを知っている伝道者でありました。しかし、2章3節で言われている「衰弱」「恐れ」「不安」はそういう肉体的なことではなく、ユダヤ人の迫害であるという多くの注解者の意見もあります。その可能性は強いと私も思います。しかし、どちらもあったということも否定できません。いずれにしても、パウロはそういう弱さをすべて知る伝道者でした。己が身に襲う人間の攻撃、病魔の恐ろしさ、そうした苦しみによって経験する人間の弱さをパウロは知っている。そこに、また弱い者の心を知る深い愛に満ちたキリストの言葉をとらえる土の器としての人間パウロがこれらの言葉を語っているのであります。その脆く弱い土の器の中に入れられる神の恵みをパウロは感謝し輝かせる伝道者となったのでしょう。

パウロは、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(Ⅱコリント10:10)という評価を人から受けていました。パウロは意外にも訥弁の説教者であったのかもしれません。パウロは、多くの賜物と知識を与えられていたのですが、この点で神が多くの賜物を与えておられなかったことも興味を覚えさせられます。

ですから、4節の「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした」という場合の「“霊”と力の証明」は、パウロが特別な奇跡的な力を行ったということを意味しているのではないと思われます。人間的な力によるという誤解を与えないために、言葉巧みに伝道がなされなかったのに、奇跡的な力による「しるし」で人を引き付けるのは、矛盾したことになります。

パウロの宣教は、使徒言行録に記されているような奇跡的な業を多くともなったのではなく、むしろ、人の目には目立たない言葉、辛抱強い、愚かとも言えるキリストの十字架だけを語る宣教に従事したといっても過言ではなかったのではないでしょうか。

しかし、そうであるからこそ、十字架を指し示すパウロの言葉に、十字架を信じて語るパウロの言葉に、「“霊”と力の証明」になる神の力が驚くべき形で表されたのではないでしょうか。パウロはキリストの十字架の力を信じて語ったのです。そこに聖霊の力と助けがあらわされ、神の力によって、信仰へと人を導く驚くべき出来事がそこに起こったのであります。パウロは、なによりも、そこに働いた見えざる聖霊の力、聖霊の働きを信仰の目で見ていた、見ることの許された伝道者であったのであります。そのことを通してまた、キリストの十字架の無力な姿の中に現れる神の圧倒する恩寵の力を見ることができたのであります。わたしたちは、その無力さ、弱さを知らされる中で、ますます豊かに働くキリストの十字架の恵みを知るものとされる。十字架の言葉というのは、その様にしてしか捉えることのできないわけでないけれども、わたしたちは、どんなに優れた賜物や健康に満たされていても、そこからキリストの恵みを見るのはやはり難しいのであります。

わたしたちの伝道がどこか力がない、振るわないところがあるのは、神の力が弱く、神の力が働いていないからではありません。神の力ではなく、わたしたち自身が、自分が立派になってからでないと、また知識が豊かでないと伝道ができないと思ってしまっている、そこに原因があるのではないでしょうか。わたしたちの貧しさや、弱さは、決して福音を語るのにマイナスになるのではありません。むしろ、そこにこそ神の恵みと力が豊かに働くのであります。パウロのように自らの肉体的にも精神的にも弱さを知る者の方が、むしろ伝道者としてふさわしい働きができることを強く教えられます。だからといって、病になる方が良いということが薦められているわけでありません。わたしたちは、十字架に表された神の力による福音の持つ本質を、そうした人間の弱さの中でこそむしろ強く働くことを知ることの大切さが教えられているのであります。