コリントの信徒への手紙講解

4.コリントの信徒への手紙一1章18-25節『神の知恵と力』

パウロは、ここで「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われるものには神の力です」と述べています。この言葉は、パウロの信仰の確信を述べるものです。2章2節では、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」とのべて、パウロは自分の宣教の姿勢、信仰の在り方を明らかにしています。

パウロの宣教の姿勢、信仰はこれらの言葉でよくわかるのですが、その十字架の言葉を聞く人々はよく理解できたかと言うと、そうではありません。むしろその意味を知ることができた人は、ごくわずかであったと言った方が正確かもしれません。キリスト教会は2千年間、キリストの十字架の言葉を福音として宣べ伝えてきたのであります。そして、十字架の言葉を信仰のよりどころとして固く立ってきたのであります。

しかし、現実の教会の姿を見ていますと、本当に十字架の言葉を信仰のよりどころとして立ってきたのか、ということに疑問を感じさせるような姿を現してきたことも素直に認めないといけません。

「十字架の言葉は、わたしたち救われる者にとっては神の力です」と述べていますが、「滅んでいく者にとっては愚かなものです」と述べています。十字架の言葉が、それを聞く者にとって、救いと滅びを分かつものとなることを、この言葉によって述べようとしているのです。つまり、十字架の言葉を、これを聞く者が、わたしに向けられた救いの言葉として信じ受け入れる者にとっては救いの言葉として働き、まさに神の救いの力として働いているのだという、神の現実を明らかにするものとして、パウロは語っているのであります。

問題は、十字架の言葉を誰が信じるかという人間の側にあるのですが、パウロは、ユダヤ人とギリシャ人をその代表的な例として、人間の側にある問題を明らかにしています。

イザヤ書29章14節を引用して、十字架の言葉は「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」と述べ、「知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。」という問いを持って、この議論を進めています。パウロが問いかけをしている知恵あるものとは、この世の知恵で神の真実を押しはかろうとする知者たちに対してであります。ギリシャには、ソクラテスやプラトンという哲人を配した国で、知恵を探求することにおいて、自分たちが優れた存在であると考える人たちが多くいました。そして、ここで言われるユダヤ人とは、神の救いの言葉を最初に与えられた人々で、神の救いとその約束を与えられていた神の選びと特権を与えられていた人々です。聖書の言葉を研究する「学者」と呼ばれる律法の研究者もいました。彼らはそのようなものとして自分たちは知恵ある者であると考えていました。しかし、そうした彼らの教えや考えから、キリストの十字架の出来事をどうとらえることができたか、その真理をどうとらえることができなかったのかを、パウロは問うているのであります。

パウロは、こうした知恵ある人々に向かって、「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵に適っています。」と述べています。

パウロが言う自分の知恵というのは、理性の働きで、「十字架の言葉」を解釈しようとする、その認識の在り方です。パウロはローマ書1章18節以下において、罪の結果生じた、人間の理性機能の働きの混乱した姿を明らかにしています。神の与える真理を拒み、世界の創造者、また救いの創造者として働く神の働きとそのために働かれる神の真実を拒み、偶像を神として崇める、道徳秩序を破壊する人間の心の鈍さを指摘しています。

聖書は、人間は神のかたちに似せて創造されたことを明らかにしています(創世記1:26-28。人間は神のように人格を持ち、神の正義と真理を認識する心を持ち、神の聖に与る者として、聖なる存在として創造された、この点で人間は創造の冠として存在するものとされていたのであります。それは神との交わりに生きる宗教的存在として欠くことのできない性質でありました。しかし、罪の結果生じた、人間の混乱、悲惨の現実をローマ書1章18-32節においてパウロは明らかにしているのであります。

だから、パウロは罪のもとにある人間は、その生まれながらに持つ理性による認識能力は、神の真理をそれ自身の力を頼って認識しようとしても認識できないことを明らかにし、神は世の知恵を愚かにされたというのであります。

では、神の言葉を十分に与えられていたユダヤ人の問題とは何でしょう。

主イエスは、ご自分が神の御子であるといわれていました。自らを神と等しい者と称し、エルサレムの神殿を破壊し三日で神殿を建て直すと語られたイエスを、ユダヤ人は神を冒涜する者として告発し、また、ローマの支配者に反逆するものとして差し出し、ポンテオ・ピラトの下で死刑を言い渡してもらい、十字架にかけました。ローマの兵士たちをはじめ、イエスを十字架に付けた人々は、「他人を救ったのだ。もし神からのメシヤで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言って呪いの言葉を述べました。自分の命さえ救うことのできない無力な者が神の御子でありえない、救い主でありえない、これが世の知恵による合理的、論理的な判断です。こうして、ユダヤ人は十字架のイエスが神の御子で救い主であるという事実を否定しました。

彼らはイエスが本当に神の子であるなら、十字架から降りてきて自分を救うはずだ、神の子がそんな辱めを受けたままで十字架に死ぬはずがない、との理解のもとで、神の子であるしるしを求めたのです。イエスはそのような彼らの期待通りにしるしを示されることはありませんでした。

しるしを求めるユダヤ人、知恵を求めるギリシャ人、いずれも十字架の言葉の意味を理解し信じることができなかったのです。この場合のユダヤ人、ギリシャ人という言葉使いには、少し注意が必要です。ユダヤ人とは律法の専門家、その知識が豊かであると自負する律法学者と呼ばれる人々とその信奉者たちのことです。だからキリスの十字架を信じ受け入れたユダヤ人はこれに含まれていまえん。ギリシャ人も自分を世の知者であると自負する人々のことです。十字架の言葉の前で、自分の愚かさを認め、キリストを信じ受け入れた人はその中に含まれていません。

パウロは、ユダヤ人やギリシャ人がキリストの十字架を理解できなかったのは、神の知恵に適っていると21節で述べています。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」、と言葉を続けています。

「そこで」というのは、今申しあげた様な人間の罪とその下にある人間の認識能力の事情を全て考慮してという意味です。だからここは、「そういうわけであるから」という意味に解すべきところです。

無力な姿で十字架にかけられて死なれたキリストは、三日目に復活し、その栄光の体を弟子たちに示し、パウロにも表れたキリストは、聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、しかし、三日目に復活されたことを、この手紙の15章でパウロは明らかにしているのであります。パウロは、それを生活のよりどころにしている福音であり、キリスト教会が福音として語っている内容であり、わたしも受けたものですと述べているのであります。キリストの復活はキリストを信じるすべての者に、同じ復活の命を与える出来事であると語っているのであります。つまり、十字架にかかられたイエスが復活されたということは、この方が神の約束されたキリストであるという事実を確証させる神の知恵による救いの方法であることを、パウロは述べているのであります。それこそがキリスト教宣教を無駄にしない言葉であることをパウロは明らかにしているのであります。

パウロは、そうした事柄を念頭に置きながら、神はこれらの十字架の言葉、宣教の言葉として人々に伝えることにより人々を救おうとされた、それは神の知恵で、それは人々から見ればまことに愚かと思えるような手段である。しかし、信じる者を救おうとされる神の力であり、神の知恵なのだとパウロは語っているのであります。

十字架の出来事は、聖書以外にも、歴史の事実として書き留められていますので、イエスが歴史上の人物であること十字架刑に処せられて死んだことを否定する人はいません。しかし、イエスが復活された。それゆえに、イエスこそ神の御子救い主キリストであるという事実は、主の弟子たち、主を信じる人々の間にだけ明らかにされた出来事として聖書に報告されています。パウロは、これが神の知恵であり、愚かな手段であるとべているのであります。しるしを求めるユダヤ人には、それ以上のしるしを示されなかったのであります。十字架につけられる神はまさにそれだけを見ると人よりも弱い、愚かな出来事であると思えます。しかし、そこに神の知恵が表されているのであります。世の権力や知恵の中で苦しむ、貧しく弱い人々の罪を背負い、神との真実な交わりに生き、神の豊かな恵みの救いから遠ざけられているような存在である人々に、パウロをはじめ主の弟子たちは、キリストの十字架は、わたしたちの罪を背負い、神の義を信じる者に与え、命を与え、神との生ける命の交わりを回復するためになされた救いとして語ってきたというのであります。それが神の知恵であるというのであります。ここでは復活のことが述べられていませんが、それは前提にして議論が進められていることを覚えることが大切であります。

神の力と知恵は、キリストの十字架と復活の出来事の中に表され、それを宣教の言葉として語る弱い群れでしかないキリスト教会の福音宣教の業に表されている、パウロはそのことを語っているのであります。パウロが語る「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」とは十字架の後の復活という事実を信じないと語ることができない言葉です。十字架につけられた神の御子キリストが復活した。この出来事の中に神の勝利、神の知恵の勝利を見ているのであります。そして、この十字架の言葉を信じる無学で貧しい者を救うことこそ神の力、神の知恵であるとパウロは説くのであります。私たちは、世にあっては、貧しく弱い、そういう日々の生活をしている存在であるかもしれません。愚かな政治家や、世の冨者の中で貧しさを強いられている存在であるかもしれません。しかし、真の富、真の知慧、命はキリストの神の中にある、そのことを明らかにするのが、十字架にかけられた神の御子キリストが復活されたという出来事の中にあるのです。これは、人間の知恵で知ることのできる事柄ではありません。この神の知恵は「召された者に」だけ与えられたものであることをパウロは明らかにしているのであります(24節)。そして、「ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが」と述べて、これは「召された者に」与えられた神の知恵と力として宣べ伝えられたものであることを明らかにしているものであります。神はそのようにして、知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにされたのであります。それは、わたしたちの生活のよりどころとする言葉として与えられているのであります。