コリントの信徒への手紙講解

序.コリントの信徒への書簡執筆の事情と特質

パウロの手紙は新約聖書の中で最も古い時期に書かれています。このことは、パウロの手紙が最初期のキリスト教会に関する最も信頼のおける資料であることを示しています。新約聖書に残されているコリントの信徒に宛てられた二書簡は、ローマの信徒への手紙と異なる書き方がなされています。その相違は、それぞれの教会とのパウロの関わりの違いから来ています。パウロはローマへは一度も行ったことがなく、従って、他の使徒が建てた教会であるのでその教会の事情に立ち入ることを意図的に避けています。だから手紙の書き方、内容は、一般的で神学的な形で福音理解を示すようになっています。

しかし、コリントへは、いわゆる第2回伝道旅行の際に立ち寄り、パウロ自身が伝道しています。パウロのコリント初訪問は紀元49年頃で、その滞在期間は1年6か月に及んでいます。パウロがコリント滞在中身を寄せていたのは、ローマからやって来たパウロと同じテント作りを職業とするユダヤ人夫婦、アキラとプリスカの家でした。その間、パウロは福音宣教に励み教会の土台を築き上げたのでありました。それゆえ、コリントの教会はパウロが建てた教会であるということができます。

その後パウロは、コリントを出発し、途中エフェソに立ち寄り、そこでそれまで同行していたアキラとプリスカと別れています(使徒18:18-22)。それから伝道旅行の基地となっていたアンテオキヤに帰り、その後、再びそこから第3回伝道旅行に出かけたパウロは、エフェソに戻りそこで約3年間滞在しています。コリントの信徒への手紙は、この時のエフェソ滞在中に書かれたのであろうと多くの学者は言っております。たぶん54年の春ごろであろうと言われています。パウロはコリントを離れてからも人づてに、あるいは手紙でコリントの教会の情報を得ていただけでなく、その信徒たちに対して責任を持っていると考え、人を遣わしたり、手紙を送ったりして、引き続き牧会していたのであります。

コリント信徒への二書簡は、読めば分かるように、コリントの教会から寄せられた問いに対するパウロの答えであり、牧会書簡であります。コリントの教会とパウロとの間には血のかよった関係があり、互いの事情に精通した間柄のなかでなされた手紙であります。

しかし、このことはまた、この手紙を現代のわたしたちが読むとき一つの困難な問題のなかに置くことになります。それは、パウロが実際にコリントに宛てて書いた手紙は少なくとも四通あり、その中の二通が失われてしまっているらしいということから来る困難です。Ⅰコリント5:9には、この手紙以前に書いた最初の書簡があったことに言及していますが、今日では全く失われてしまって見ることができません。また、第1コリント書と第2コリント書の間にもう一つの手紙、「涙の書簡」という手紙があったことが、Ⅱコリント2:3-4、9節に「涙ながらに手紙を書いた」という記述から明らかです。ですから、パウロがコリントに宛てて書いた最初の手紙と3番目の手紙が失われていて、今日わたしたちが新約聖書から読むことができるのは、2番目と4番目の手紙だけだということであります。失われた手紙について言及している部分についてはある程度類推できるだけで、その事情については正確に知ることは困難になってしまっています。

それだからといってこの二つの書簡の価値が失われるわけでありません。また、ローマ書のように神学的な書き方がなされていないからといって、コリントの信徒への手紙が、神学的に価値が低いということも言えません。事柄は実際的であっても神学的な視点をパウロが失うことはありません。むしろ、15章の復活に関する記述は、神学的に最もまとまったものとなっています。

この手紙に書かれている内容を理解するためには、コリントという町がどのような歴史を歩んできたのか、その町がどういう特徴を持っていたのかを知ることは重要であります。コリントはギリシャ本土とペロポネソス半島を結ぶ狭い地峡に位置しています。このことは、コリントにとって町の発展、商業の発展にとって有利な条件でした。なぜなら、南北の陸路を支配し、またエーゲ海とアドリア海を結ぶ重要な陸橋の役割を果たしていたからです。ローマ皇帝ネロは、パウロの時代にこのコリント地峡に運河を作る工事を起こしましたが中止となり、完成したのは実に19世紀末のことです。すでにホメロスの時代からコリントは「富裕な町」として知られていましたが、商業の中心地で港町であったこの町は、住民の風紀が乱れていることでも有名でありました。当時の芝居のなかで「コリント風に振る舞う」という台詞がありますが、それは、「淫らな生活に耽る」ことを意味していました。

コリントの町は、かつては純然たるギリシャ人の町でしたが、ローマ帝国によって倒され、ユリウス・カエサルによって再建されてからは、ローマの植民都市として繁栄し、ローマ人を支配階級とする国際都市にとなっていました。ギリシャ語を話す住民の大部分は奴隷であり、また、そこには大規模なユダヤ人居留地があり、ユダヤ人は会堂と指導者を持っていました。ですから、コリントの教会の信徒は、ユダヤ教から改宗したユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者で、その多くは奴隷などの下層の階級の出身者であったと思われます(Ⅰコリント1:26)。そして、コリントの風習にも多くの影響を受けていたことは、手紙の内容からも十分うかがえます。

この手紙は、教会とは何であるかを考えるうえでも重要な視座を与えてくれます。