エフェソの信徒への手紙講解

10.エフェソの信徒への手紙3章14-21節『パウロの祈り』

3章1~13節を省略して3章14~21節にはいります。手紙の本論の展開からは、2章の終わりからここに移る方が自然だからです。3章2~13節において異邦人への使徒としての自分のことについて述べていることは、内容的には、2章11~22節で述べたことの反復ですので、この手紙の内容を理解する上で省略しても構わないと考えるからです。

さて、ここに記されているパウロの祈りは、教会のための祈りです。パウロはこの祈りを特別な思いを込めて行っていたと思われます。通常、ユダヤ人は立った姿勢で腕を伸ばし天に向けて祈りますが、パウロは、「わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」とわざわざ断っているからです。主イエスのゲッセマネの園の祈りも地面にひれ伏してなされました。ユダヤ人は、特別な場合には、地面にひれ伏し、ひざまずいて祈りましたから、パウロの祈りは特別な思いを込めてなされたものと考えられます。しかし、具体的にどのような意味を持つ特別な祈りであったかは判りません。1節と13節との関係で言えば、異邦人の使徒として御言葉を宣べ伝え、そのことの故に捕らえられて獄中にあるパウロの苦難を見て、異邦人キリスト者が躓きを覚えないようにという思いがあったかもしれません。そのような状況にあっても神に希望を抱いて祈るパウロを見て、そうした苦難の出来事を通しても神の支配の確かさを確信するパウロの祈りを知って、神の御力を確信して欲しい、という特別な思いを込めて祈られたのではないかと考えられます。

パウロのこの祈りは、私たちの祈りのあり方を考える上で多くのことを教えてくれます。

パウロは、「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」という言葉で祈りを始めています。ギリシャ語では、父を表すパテールと家族を表すパトリアは同じ語根からできています。この語源論的な言葉遊びによってパウロは、神が万物の創造者であり、今も変わりなく支配し統御しておられることを告白し、人の現在の苦難も、喜びも、共に神の支配の中にあるという事実に、わたしたちの目を向けるべきことを示しています。人の生死の決定権を持って支配し、ご自身の栄光のためにわたしたちを役立て用いられる、父なる神の前に跪き、目を上げて祈る、そこに人として生活の基礎、歩みの出発点があります。わたしたちの人生、信仰の歩みにおいて大切なことは、わたしという人間が先ずあるということではありません。神によって創り出され、神によって支配され、支えられている、わたしという人間があり、この神に支えられ栄光の器とされていきることを喜びとして、あらゆる境遇にあっても、この父なる神に信頼して生きる、わたしという人間があるということです。言い換えれば、その様なものでしかないわたしという人間を知っておられる神を知っているとの信仰告白が、この最初の祈りの言葉です。

祈りは、第一に自分の生きている基盤、信仰の基盤が何であるかを確認することから始まります。その基盤とは、正しく神にほかなりません。わたしという人間、教会に、神の力が豊かに表され働くのでなければ、立って行けないそういう現実を知り告白することから、本当の祈りが始まります。

祈りは、祈りをする人が神を支配し、自分の思うが侭に神を働かせることのためにすることでありません。祈りは、世界とその中に満ちるすべてのものを造り、これを支配しておられる神に委ねて生きる信仰から出る、神の力への信頼から生れる行為であるのです。

だからパウロは祈りの第二の言葉を、「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて」と続けています。人が危機の中で感じるのは、無力さであり、弱さです。だから、そのような中で得る強さは、人間の中にある力や可能性から生れるものでありません。神の豊かな栄光の中にある導きであり、神の霊とその力だけです。その現実に神が共にいて介入されることによって事態は転換します。その現実が少しも変わらなくても、神がその事態を把握しておられ、支配しておられる限り、経験する危機の意味は全く違ったものになります。パウロ自身、13節で「あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」といっています。「神の豊かな栄光」は、人の苦難を通しても表されます。しかし、その意味を、人はその経験している事態の中で知り認めることに困難を覚えます。

外なる人を襲う危機は、内なる人の信仰を危機に陥れます。だからパウロは「あなたがたの内なる人を強めて」と祈るのです。人は外なる人の健康、幸福を祈り求めることを何よりも優先しがちです。これは教会のための祈りにおいても同じです。教勢の進展など外的な事柄を祈ります。しかし、パウロの祈りは、先ず「内なる人が強められるよう」祈るのです。内なる人の信仰が強くなれば、外なる人の衰えや失われる現実に失望落胆することはないからです。今直面している危機は、外なる現実の回復を求めることによって克服することができないことが多くあります。そして、神の計画はわたしたちの目には見えません。しかし神は、キリストを死者の中から復活させられたように、死に打ち勝つ力を、キリストと結びついて生きる教会に表され、同じくキリストと結びついて生きている一人一人の信徒にもその力を表される方であられます。その事実を、内なる人だけが信仰の目で見ることができます。だからわたしたちは、「内なる人を強めて」くださいとたえず祈らなければならないのです。この祈りは、今日祈り、明日祈り、毎日祈り続けねばならないのです。

パウロは、この祈りの言葉に続けて、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(17節)と祈っています。

わたしたちの内なる人が強められるためには、「心の内にキリストを住まわせ」る必要があります。死に打ち勝ち復活されたキリストが内住してくださるならば、どんな危機や試練に直面しても、それに打ち勝つことができます。このキリストの内住はただ「信仰によって」のみ可能です。神は私たちの信仰を通してのみ内住の事実を見る目を与えてくださるからです。

「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」というと、私たちはすぐ人間の他者に対する愛を考えます。そのことも含まれますが、この愛はキリストの愛です。キリストの愛は、第一に神への信頼です。父の意思に従う愛です。それは、十字架の死に至るまで従順であることによって表されました。第二に、その従順は、贖罪のための死でありましたから、他者を救うための無償の愛として示されました。しかし、神はこのキリストを復活させることによって、神はキリストへの愛を示し、キリストに結びつくすべての者を愛しておられる愛に満ちた父であることを明らかにされました。ですから、「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」ということにおいて求められているのは、キリストの向けている愛、キリストに向けられている愛、その両方を知って、あらゆる境遇に処して生きることが含まれています。

ここから人間に対する愛も考えていくということです。キリストの愛を知らず、キリストの愛に根ざさず、キリストの愛に立てない者が、愛という言葉をいくら口にしても、その愛は所詮人間の利己的な愛に過ぎません。

このキリストの愛は、独り個人として持てるものでもなければ、独り持っていれば良いというものでもありません。この愛は、第一に教会への愛でしたから、教会全体がこの愛の中に共に立つ信仰が求められます。

だからパウロは、18-19節において、「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」と祈っています。

「すべての聖なる者たちと共に」ということが非常に大切です。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という言葉で意味されている具体的内容が何であるかは、この言葉だけでは分かりません。キリストの愛の無償性、無限さ、人知を超えるその本質を理解し尽くすことは現実には不可能です。しかし、それはキリストへの真似びとしての生き方を求める中で、その意味を少しずつ知ることができます。キリストの神への愛の実践は、父への信頼と従順です。それは、教会が示す場合、御言葉への従順であり、その信頼は、礼拝において表されるものです。

キリストの愛を知り、神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、それによって満たされるのは、どのようなときにもキリストを信じる「聖なる者たちと共に」御言葉に聞き、礼拝を捧げる教会に与えられる恵みです。

そして、パウロは20-21節において頌栄を歌い、この祈りの結びとしています。パウロはこの頌栄歌において、神を「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」であるといっています。わたしたちが祈り向かうお方が、そのような素晴らしいお方であると知る祈りは、本当に慰めと希望に満ちたものとなります。わたしたちはこのような慈愛に満ちた神を知っていますので、この神に向かって心を一つにして、キリストの愛に根ざし、この愛にしっかりと立って、共に祈り合うものとなれるのです。

パウロのこの祈りは、外的状況の変革を求める祈りではありません。この祈りをもって、パウロがどのような場合も、そのような祈りをしなかったということはできません。しかし、パウロはこの祈りにおいて教会で祈るべき祈りとは何か、その本質を明らかにしてくれているといえるでしょう。わたしたちが祈りにおいて大切にしなければならないのは、神の許にある現状把握です。神の支配と内に働く力への信仰であります。かつてなされたイエス・キリストにおける救いと、その愛に対する信仰をもって祈ることです。かつてわたしたちの間に住まわれた方は、今も教会に内住し、同じ力と恵みを持って事態を支配し導かれる神であられます。この神に栄光を帰して生きることができるよう、たえず祈り求むべきことを、パウロはこの祈りにおいてわたしたちに教えてくれているのであります。この祈りを、わたしたちの教会の祈りとできる日、教会は揺るぎ無い信仰をもって立つことができます。