エフェソの信徒への手紙講解

2.エフェソの信徒への手紙1章4-6節『神はわたしたちを愛して』

3-14節の部分は、キリストにある神の恵みを讃美する賛歌で、その主題は3節の「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださった」という言葉に示され、「祝福する」という語は、「良き言葉」を意味するユーロゲという語幹からできていて、神の祝福は、イエス・キリストにおいて啓示された言葉と業を通して示されるということを、前回学びました。

「祝福」「良き言葉」の内容は、4-6節において、「キリストにおいて選ぶ」ということの中で明らかにされています。

このわずか三節の中に、神の恵みと慰めの教理が凝縮されて、わたしたちの揺らぐことのない救いとその確かさの根拠が示されています。

神の恵みの選びを語る4節は、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して」という言葉ではじまります。神の選びの動機は、わたしたちが優れたいたからでも、神の前に正しい者であったからでもありません。神の愛にあります。それは、イスラエルが選ばれた場合も同じです。申命記7章8節において、イスラエルはどの民よりも貧弱であったが、「主の愛のゆえに…救い出された」といわれています。

ここでは、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して」といわれています。神の愛が動機となって、キリストにある選びが実現したといわれています。わたしたちが生まれ、形作られる前から、否、この世界が何も存在しない天地創造の前から、神は、わたしたちを愛していてくださっていたというのです。そうであるなら、天地の創造は、わたしたちに対する愛を表すためであり、わたしたちを創造する業も神の愛を明らかにするためであったということになります。この愛に気づかず罪を犯して滅びの道を歩んでいたわたしたちのようなものでさえ、神は愛し続けていてくださったということが、この言葉にあらわされているのであります。

ルカ福音書15章にある放蕩息子の譬話に出てくる父親のように、神はわたしたちを愛し続け、その愛の交わり、恵みの中で、命を得て生きるように愛し続けてくださっているという素晴らしい恵みが、ここで告白されています。

人間の愛は決して不変ではありません。時には憎悪や憎しみに変わり、人を裏切ることがあります。しかし、神の愛は、天地が造られる前から、今に至るまで、そして未来にわたっても不変です。神の愛はイエス・キリストを通して、永遠に変わらない、これが私たちに与えられる救いの確かさの根拠、揺るぎ無い土台であります。

ヘブライ書13章8節に「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」とありますが、それは、イエス・キリストご自身が永遠に変わることのない神であり、その不変の神の愛を執り成す仲保者としていますということが意味されています。神はイエス・キリストを、きのうも今日も、また永遠に変わることなく愛し、イエス・キリストを通してわたしたちに対する愛を変わることなく示してくださいます。イエス・キリストにおいて与えられる神の愛、選び、救いが不変であるということの根拠は、神とキリストとの間にある不変の関係にあります。

神の愛が永遠から永遠にわたって、キリストにあるわたしたちを対象として向けられ、注がれているから、わたしたちの信仰は揺るぎ無い確信と喜びを与えられます。神の愛の対象とされているわたしたちは、キリストを知る以前、罪の中にあって汚れた者でありました。しかし神は、わたしたちが神を知らないときから、わたしたちを愛し、「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」といわれるのです。

ここで「汚れのない者」と訳された語は、「非難されるところのない」とか「傷のない」という意味を持つ語で、旧約における犠牲祭儀における用語が元になっています。レビ記19章2節において、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」といわれているように、神と交わる者は「聖なる者」でなければならないという祭儀における信仰がこの言葉の背後にあります。犠牲とされる動物に傷があることは「聖なる」条件に合いませんでした。エフェソ章1章4節では、こうした旧約聖書に示された「聖」の概念で、「聖なる者」とされていることが明らかにされています。そして、コロサイ書1章22節では、「とがめるところのない者」と並べられて用いられています。エフェソ書5章27節では、キリストがしみもしわもない栄光の姿で御自分の前に立てる教会に関連づけて、教会は汚れのないものとなるといわれています。

神はわたしたちを愛して、御自分の前に「聖なる者」として受け入れ、交わりを持つため、天上の全ての恵みに与らせるために、「汚れのない者」「とがめられるところのない者」「傷のない者」「非のうちどころのない者」にしてくださるというのです。この完全さ、非の打ち所のない聖性は、わたしたちの力で到達できるものでありません。その完全さは神が判定することでありますし、神がキリストにあってわたしたちをそのように見なしてくださり、聖霊の力によって恵みとして与えられるものであります。そのようなものとするため、神はわたしたちを「キリストにおいてお選びになられた」というのです。何という驚くべき、素晴らしい恵みでありましょう。

この世界に起こる全ての歴史に先行してあるのは、神のキリストにおいて向けられている愛であり、選びの恵みです。キリストが歴史の中に現れて初めてわたしたちの選びが始まったというのでも、神の愛がそこから始まったというのでもありません。キリストが歴史の中に現れて、わたしたちは始めて神の愛を知り、神の選びの恵みの素晴らしさを知ることが出来るようになったということです。キリストにおいて、この恵みは啓示され、わたしたちはこの方を信じる信仰へと導かれて、その恵みを知りうる幸いな者にされるということです。この恵みは、ただ信仰においてのみ知り得ます。しかし、わたしたちが信じる者となる以前から神の愛はわたしたちに向けられていたのです。神は選び、信仰をさえ聖霊の力によってわたしたちのうちに起こしてくださるのです。

神の愛と恵みというのは、金太郎飴のようなものです。天上から地上に突き抜けてキリストが達しておられ、歴史の始まる前から終末までキリストが突き抜けてわたしたちの選びにおいて支配しておられます。金太郎飴は長い棒状になっていて、どこを切っても金太郎の顔が出てきます。神の愛と恵みは、キリストにおいて、そのどの部分に触れても輝き出て現れてきます。キリストにおいて選ばれているわたしたちには、わたしたちが信仰をもって歩むどの部分にも、神の愛と恵みが満ち溢れています。

キリストに従う信仰の歩みは、現在、老いや、病や、試練や、悲しみの中にあっても、神の愛に満たされ、神の恵みに満たされています。しかしそれは、ただ信仰の目でのみ見ることができる事柄であります。信仰の目でこの事実を見る時、わたしたちは、この恵みの神をいつも讃美して生きることができます。

5節は4節までに語られたことと違う新しいことを一つも述べていません。ここではただ、永遠の計画によって定められた恵みの選びの事実を繰り返し語っているに過ぎません。しかし、この計画が神の御心によったということが明らかにされています。

わたしたちを愛すること、聖なる者とすることが神の意志であり、神の永遠の御計画において予め定められていた、という言葉を聞くことは大きな慰めです。神は、わたしたちをイエス・キリストにあって神の子にしようと天地が造られる前からお定めになっていたのです。永遠の神の御子イエス・キリストにあって、わたしたちも神の子にしてくださるという大きな恵み、祝福がここに語られているのであります。神の子と呼ばれるに値しない、罪と汚れに満ちたわたしたちを、その罪から救い出し、キリストのゆえに、聖なる者、神の子にふさわしい者にしようとお定めになっていた、というのであります。

あの放蕩息子を雇い人や奴隷としてではなく、息子として迎え入れた父親のように、神はわたしたちを息子として迎え入れ、御国の恵みの財を受け継ぐ資格を与えて迎え入れてくださるというのです(14節)。

神の行為の出発点と目標が5節において表されています。キリストにおいて選び救うということが、神の永遠に変わらない定めであり意志であり、神の愛であったということがここで改めて語られています。それは、わたしたちをイエス・キリストにあって神の子にしようとする愛であり、選びであります。

3-14節までに、神の恵み、神の栄光をたたえるためという言葉が、3回繰り返えされています(6、12、14節)。神がキリストにおいて選ぶ天地創造前からの永遠の予定という驚くべき恵みを語る教理の前に、わたしたちは、ただ神の偉大な恵みを讃美し告白することが出来るだけです。ですから、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」という言葉に、わたしたちは心からアーメンということができます。

神の恵みは、キリストにおいて現されます。神の恵みはキリストを信じるわたしたちを圧倒して迫ってきます。独り子キリストを給い、独り子を死なせて救おうとされるほど愛してくださった神の愛がわたしたちに強く強く迫ります。天地が造られる前から、神はそのようにわたしたちを愛し、イエス・キリストにおいて、聖なる者、罪と汚れのない者にしようとして下さったその愛がわたしたちに迫ってきます。この罪深き神に背いて生きていたわたしのような人間をも、神の子にしようとしてくださる神の愛が、わたしを追いかけ、包み込むのです。圧倒する神の愛、恵みを、わたしたちが褒め称えて生きることを神は望まれます。神はそのように神の栄光を現して生きるよう、わたしたちを選び、生かし、愛してくださっているのです。