キリスト教講座

第19回キリスト教講座『闇から光へーバビロン捕囚とイスラエル(4)神の慰めを告げた預言者第二イザヤ』

日時 2008年11月30日(日)午後1時30分-3時
場所 日本キリスト改革派八事教会
講師 鳥井一夫牧師

 

1.第二イザヤとキュロス

今回、本講座は、「闇から光へ-バビロン捕囚とイスラエル」という主題の4回目にあたります。今回取り上げる人物は、アモツの子イザヤよりおよそ150年後の活躍した一般に第二イザヤと呼ばれている無名の預言者です。彼の告げた使信は、イザヤ書40章-55章に記されています。第二イザヤが預言者として活動したのは、紀元前550年から540年の間であると考えられています。ユダ王国は、前587年に、バビロンの王ネブカドネツァルによって、エルサレムの町と神殿を破壊され、第3回目の捕囚を経験し、大破局を迎えましました。そのネブカドネツァルも562年に死に、その後、バビロンは、内部抗争を繰り返し、7年間に3人も王が変り、弱体化していきました。その頃、北の方では、ペルシャ人のキュロス(前559-530年)が台頭し、彼は550年にメディアの首都エクバタナを制圧してメディアを征服し、546年には、リディアのクロイソスを打ち破り、首都サルディスを陥落させて、バビロンに換わる帝国支配者となる機を伺っていました。このようにキュロスがバビロンを制圧するために攻撃を加えてくるだろうという気配が感じられる時代に第二イザヤは預言者として召命を受けています。そして、バビロンは539年にペルシャによって陥落させられます。第二イザヤの預言にはその陥落を予告対象として語られているだけですので、彼はその事態を知らずに預言者の働きを終えたと考えられます。それは、捕囚からおよそ50年が過ぎようとしていた時代でありました。第二イザヤはキュロスについて次のように言及しています。

キュロスに向かって、わたしの牧者
わたしの望みを成就させる者、と言う。
エルサレムには、再建される、と言い
神殿には基が置かれる、と言う。

第二イザヤは、このようにキュロスのことを「主の牧者」と呼び、主の意志を実現する使者であると語りました。また、エルサレムは彼によって再建され、エルサレムの神殿の基も置かれることになる、と告げています。キュロスに関する第二イザヤの最も論争的な発言は、45章1-7節における王の選びについての託宣の中に見出されます。そこではキュロスのことを、「主が油注がれた人」(1節)、主の僕ヤコブ、主に選ばれたイスラエルのために救済者となると語っています。その当のキュロス自身は、自分をそのように選んだ主のことを知らずにいますが(4,5節)、主はキュロスの右の手を取って、諸国を従わせ、莫大な富を彼に与えることを約束し、それによって自分を選んだものが誰であるかを知るようになる(3節)、といわれます。このキュロスの勝利と彼による主の民の解放を通して、「日の上るところから日の沈むところまで」(6節)、あらゆる場所の人々がヤハウエこそ唯一の神であると告白するようになる、と第二イザヤは告げました。

第二イザヤの使信は、実に慰めに満ち、これほど深い神の愛を豊かに語っている預言者はいません。捕囚からの解放の喜び、導きが、深く、広く語られていますので、さぞかし第二イザヤの語る使信は、捕囚の民に喜ばれたことだろうと考えたくなりますが、実際には、彼の告げた預言は、聞く者を喜ばせるどころか、捕囚の共同体を狼狽させることになりました。

なぜ第二イザヤの告げる言葉に捕囚の共同体が狼狽したのか、そこには、捕囚におけるヤハウエ信仰の危機と第二イザヤの使信の神学的問題ありました。

 

2.捕囚におけるヤハウエ信仰の危機と第二イザヤの使信の神学的問題

第二イザヤは、捕囚から既に50年が経過しようとしていた時に預言者としての召命を受けています。捕囚生活は、実際にはそれほど惨めなものではありませんでした。捕囚民の中にはバビロンでの生活をそれなりにエンジョイして、もはや帰還を願わない人たちもいました。だから、第二イザヤがペルシャのキュロスによる解放を告げる言葉は、そのように生きる人はそれなりにバビロンでの生活に満足しているわけでしたから、また戦乱による不安な時代を招くのではないかという考えから歓迎できなかったようです。勿論物理的な悲惨さを味わって生きている人もいなかったわけではありません。そのような人にとっては、捕囚体験は、自分たちを選んだ神への懐疑を抱かせることになりました。そうした人々の中からバビロニアの宗教を憧れ改宗する者さえでてきました。古代人は、一般に国家間の争いは同時に、それぞれの国を導く神と神の争いとして理解する傾向がありました。北のイスラエル王国は滅びましたが、ダビデの王国は永遠に存続するという約束がなされているので、ダビデの血統につながる南のユダ王国は、どんなことがあっても滅びることはないと信じてきました。それゆえに、ユダ王国の滅亡は神の約束と導きに対する懐疑を引き起こすことになりました。587年の大破局、長引く捕囚生活は、まさにその希望と確信を打ち砕く出来事として受け止められるようになりました。われわれは、「バビロンとの最後の決戦に破れた神を信じることができるであろうか? むしろ、バビロンの神々こそ崇拝すべきではないのか?」(クライン「バビロン捕囚とイスラエル」)という疑問が民の間から出されるようになっていました。その問いかけには、捕囚という事態を神の無力として見るべきなのかどうかという神学的な問題が横たわっていました。

そして、第二イザヤが捕囚からの解放を語るにしても、「どうして神は、彼の民を解放するために、わざわざ異邦人を用いるのか? 新しいモーセ、新しいダビデ、あるいは新しいヨシヤさえ、存在し得ないのか? 長い間ダビデ王家の王位に座すものに結び付けられていたメシアという称号が、公然たる異教徒であるキュロスのような者に与えられてよいのであろうか?」(前掲書)。その問いは、第二イザヤの告げる異教徒の王による解放の使信が神の選びと選びの民に与えられた約束の独自性を揺るがすものとして受け取られたことを示しています。このように救済しようとする神の能力と意志が著しく疑われた時代に、第二イザヤは、彼らには理解できない方法でのエルサレムへの帰還を宣言したのであります。

ところで第二イザヤに向けられたこうした疑問は、イスラエルが神の選びの信仰の中で、一つの民、一つの共同体だけの中で完結する神人関係として考えることができた時代には、生じることはありませんでした。しかし、異国のしかも異教の神が崇められる世界に敗北し、その支配の中で長く生活し、しかも、そこからの解放もまた、異国の異教徒を神がメシアとして選び、その者の手によって解放するということには、ヤハウエの民としてのアイデンティティーを失わせることのように思えたのです。

現代世界はグローバル化し、宗教はそのようなグローバルな世界の中で、文明の衝突の一つの要因として説明されることさえあります(ハンチントン「文明の衝突」)。果たしてそうなのか、その答えをそれぞれの宗教に求められているように思います。イスラエルは、祖国を破壊されましたが、多くの者が祖国に残っています。しかし、残った民は貧しく力の弱い人たちでした。国の主だった人たちが捕囚にされ、今、その捕囚の民は、世界の支配者が交代しようとするまさに新しいグローバル化の時代が押しよせようとしているその波のただ中で生きていました。一体、捕囚とは何であったのか、この世界と歴史は誰によって支配されているのか、という存在理由を根本から問う神学的な問題に答えることがヤハウエ宗教に求められていました。第二イザヤはその神学的課題を鋭く観察していました。

それ故、第二イザヤは,敗者の神となったヤハウエは無力と感じている者に神学的にそれを論破する答えを提示する必要がありました。そして、キュロスの選びに憤激している者にも挑戦し、なぜヤハウエはそのような者をメシアとして選ばれたのかを説明する必要に迫られました。

第二イザヤは、これらの神学的問題を「法廷弁論」という形で答えています。

 

3.イスラエルの審判における神の誠実と真実

預言者の法廷弁論というと、審判預言者の場合、攻撃する者に有罪を宣告し、その罪に対する非難や威嚇の判決を下す場合が多いのですが、第二イザヤの場合には、「非難」や「威嚇」が欠如しているといわれます。それは彼の時代には、過去の預言者たちにおいて告知された審判が既に成就していたということとも関係があるかもしれません。

バビロバビロンによる敗北と捕囚を、ヤハウエが勝手気ままにイスラエルを見捨てたと見る見方に対しては、三つの法廷弁論において、第二イザヤは、イスラエルの罪が原因であること、特に預言者たちの悔い改めの勧告を拒み続けたものに約束していた審判を、ヤハウエが自らの言葉の真実を明らかにするためになさざるを得なかった裁きとして説明しています。しかし、第二イザヤはこれらの弁論においてその罪に言及しますが、それはあくまでも審判の理由として言及し、神の真実の歴史支配の行為として説明するためにのみ行っています。

42章18-25節には、ヤハウエがイスラエルの苦難に対し見る目を持たず聞く耳を持たない審判者ではなく、イスラエルこそがヤハウエの言葉と業に対し見る目を持たず、聞く耳を持たず、ヤハウエの教えに従うことを拒んだので、ヤハウエはイスラエルを捨てたと述べられています。だからその敗北はヤハウエの無力さを示すものではなく、ヤハウエが罪の問題に主権を持って、御言葉において明らかにしたその正義の基準に従って裁くことにおいて、ヤハウエこそが歴史の主であり、その言葉に聞き従って悔い改める者には、主が解放者となられることが示されています。

43章22-28節には、ヤハウエが祭儀的な要求によってイスラエルに重荷を負わせたことはなく、むしろ、イスラエルが罪と悪の反抗によって、ヤハウエに重荷を負わせたこと、その反抗は始祖以来のもので、イスラエルはその罪をずっと重ねてきたことが述べられ、ヤハウエはイスラエルに有罪判決を下さざるを得ないことが明らかにされています。しかし、「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」(25節)と述べ、イスラエルが救われるとすれば、彼らの悔い改めが先にあるのではなく、ヤハウエが彼らの悔い改めに先立って赦そうと意志されたその恵みの意志の中にあるという実に深い慰めが語られています。

50章1-3節には、ヤハウエは無情な夫のようにシオンと離縁したのでも売り渡したのでもない。シオンは自らの悪のゆえに売り渡され捨てられた。それは、ヤハウエが贖う力がなかったからではない。ヤハウエは、エジプトにおいて海を干上がらせ、大河を荒野に変え、救いを示された、と歴史におけるヤハウエの救いに言及し、ヤハウエの無力を語るものへの反論がなされています。

さらに第二イザヤは、敗北の神は信じることができない、勝利者であるバビロンの神を崇拝すべきではないかとの問いに対しては、ヤハウエと諸国民、及びその神々との一連の法廷弁論でこれらの問題と対処しています。その敵対者に対する第二イザヤの論法は、

① 歴史に対するヤハウエの支配

② 過去、現在における状況の中で、未来の出来事を予告するヤハウエの能力

を上げて、まことの神が語ることと、行うことの信頼できる間断なき連続性を明らかにしています。そしてこの言葉と行為の連続性が、「以前のこと」と「新しいこと」に関して、ヤハウエと神々との双方の記録に基づいて検証を行っています。

第二イザヤにおいて、「以前のこと」は、出エジプトを実現させた神の言葉の力を意味しているように見えます(43:16-18)。勿論そこには、587年の大破局の出来事も含まれています。その大破局は、神の無力を証明するものではなく、ヤハウエが久しい以前から預言者たちを通じ警告してきたことが成就したのであり、ヤハウエの預言者たちと、彼らが語った神の言葉の真理性を示すものであると告げています(43:9-10)。

そして、「新しいこと」とは、バビロンの間近に迫った陥落と、ペルシャ人キュロスの台頭を意味しているのかもしれません。あるいは、来るべき新しい「出エジプト」と、今や豊かな沃地となった荒れ野を通ってのエルサレムへ向かう、祝祭的な行進を意味しているのかもしれません(43:19-20)。

第二イザヤは、これらの法廷弁論において、諸国民を証人に立て、ヤハウエこそが、初めから終わりに至るまで、歴史を支配してきたと論破し(41:1-5)、神々に対しては、過去の出来事の意味を説明し、未来の出来事を予告することによって、自分たちの歴史支配を証明してみよと挑戦しています。そして、自らはキュロスの台頭を予告し、ヤハウエが「エルサレムに良い知らせを伝える者」であることを明らかにし、そのようなことをなし得ない異教の神々とその偶像の無力を明らかにしています(41:21-29)。

 

4.救済の根拠としての選びの神・創造の神・贖いの神の同一性

第二イザヤは、法廷弁論において、異教の神々や、諸国民を証人として法廷に召喚する議論をしばしば行っていますが、第一義的には、その議論は、イスラエルにヤハウエの救いの力を確信させるためになされています。43章8-15節には、主に目を閉ざし、耳を閉ざして、その言葉に聞かず、主の御業を見ようとしなかったイスラエルを僕として選び証人として立てたのはわたしであると述べ、ヤハウエこそが唯一の神であり、わたしこそが主であり、救い主であることを、イスラエルは知り、信じ、理解するものとなると告げられています。それは、選びの民である彼らに対してだけ、ヤハウエがそのような神であることを告げ、救いを与えてきた事実を明らかにするものです。つまりこれらの弁論を通じて、イスラエルを選び、彼らには唯一の神ヤハウエのみがいますことを明らかにしています。そして、その根拠として、ヤハウエは創造者でありまた贖う神であるという同一性を挙げています。神は創造者としてこの世界に存在するすべてを(無より)創造し、その存在を与え、その「初めから」支配し導く方として歴史を支配し、また未来に起こることを予告しうる全知の神であることを明らかにしています。

第二イザヤにおいて、神について「贖う(ガアル)」という語が17回も用いられていますが、捕囚前の用法が7回に過ぎないことを考えると、それは第二イザヤにおいて目立った用法であることがわかります。この語は負債奴隷の買戻し(レビ25:47-55)の意味に用いられることもありますが、親族による負債の返済義務(ルツ3:12-13)について述べられることもあります。43章1-4節は、後者の意味で述べられています。

わたしは主、あなたの神
イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
わたしはエジプトをあなたの身代金とし
クシュとセバをあなたの代償とする。
わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛し
あなたの身代わりとして人を与え
国々をあなたの魂の代わりとする。(イザヤ書43章3-4節)

イスラエルを選び、聖なる神(43:15)として示された神は、彼らをご自身の栄光のために創造し、形づくった完成者(43:7)でありますが、何よりもご自分に背いたこの民を、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛した」といわれる至高の愛をもって愛し続ける神であります。この創造の神と贖いの神、歴史の中でイスラエルを選ばれた神が唯一同一なることこそが、この神による自然・世界・歴史の支配を可能にし、また異教徒をも選び用いイスラエルの贖いのためにメシアとなしうる究極の根拠であることを第二イザヤは示します。

そして、第二イザヤは、新しい出エジプトとしての捕囚からの解放の根拠を、このヤハウエの歴史支配の連続性の中で明らかにしています(43:16-20)。

 

5.慰めと希望の根拠としての神の言葉の永遠性

つまるところ、第二イザヤの法廷弁論は、救いの根拠が神の永遠性とその神の言葉の永遠性、不滅性にあるということに尽きます。言い換えれば、第二イザヤは、神がそのような存在として、イスラエルにその愛を示し、歴史と世界の中で、その救いを示されたということをイスラエル以外の諸国民も知ることによってヤハウエを知るものとなり、彼らもまたヤハウエの救いに与るものとなる道を示したことにおいて、新約聖書につながる普遍的な救いを示した預言者であったということができるでしょう。45章20-25節には、諸国民に対するそのような救いの招きの言葉が、実に慰めに満ちた形で表わされています。

地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。
わたしは神、ほかにはいない。
わたしは自分にかけて誓う。
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない。
わたしの前に、すべての膝はかがみ
すべての舌は誓いを立て
恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。(イザヤ45章22-24節)

第二イザヤの慰めに満ちた救いのメッセージの射程は、このように神の世界支配を通して異邦人にまで及ぶという広がりを示している点で、ヤハウエ宗教のグローバル化への道を用意しました。しかし、その本来の関心は捕囚の民の苦難からの解放の告知に向けられていました。

イザヤ書40章は、第二イザヤのメッセージをいわばエッセンスのように凝縮して語っています。永遠に変らない愛をもって、イスラエルを捕囚の苦難から救おうとされる神が、第二イザヤを召し出し、彼に、「慰めよ、わたしの民を慰めよと」呼びかけ、

エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。(イザヤ書40章2節)

語るように命じています。それは、苦役の時の終わりを告げる解放の福音の言葉です。自らの罪とはいえ、傷つき、素直になれないでひねくれている心に、ねんごろにやさしく語りかける慰めの言葉が与えられています。罪のすべてに倍する恵みで、主はその罪を償われるというのです。

そして第二イザヤは、そのためにイスラエルのなすべきことは、呼びかける声を聞いて、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通す」ことであると告げます。主が救いを働かれるために、心を開いて、その恵みに明け渡すことです。悔い改めとは、主の恵みに心を向けて、主の恵みの支配に委ねることです。エルサレムに帰るのに障碍となる山や丘は平らにされ、谷も平らにされて、広い大路を行進するように、喜びを持ってエルサレムに帰ることができる、との約束が語られています。

しかしこの民は、その解放の喜びの知らせを喜こばない心のひねくれた民でありました。そういう彼らを前にして第二イザヤはためらいながら、

呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。(6-7節)

と傷つきやすく弱く、心かたくなな民への困惑をあらわにしています。この民は、

わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と。(27節)

といって、主の歴史支配を信じられない状態にあり、心を硬く閉ざしていたのです。主の風によって自分たちは吹き飛ばされ、枯れた、という認識は、しかし一つの可能性を示しています。それはまさに主の裁きの言葉の成就としての現在の悲惨さであるなら、再び、救いを呼びよせる、新しい主の風、主の言葉が語られたなら、聞く耳を持たないこの民にも救いがあるということです。そこで第二イザヤは、

草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。(8節)

と告げて、救いを与え、贖いを実現する神の言葉の永遠性を示します。この神の約束の永遠性と不滅性こそが、イスラエルの救いの確かさの揺るぎない根拠です。それは、神の勝利を告げるまさしく福音の言葉でありました。

だから、第二イザヤは、その喜びに使者となるよう、捕囚の民に呼びかけます。

高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。(9節)

神が神として、その永遠性と無限の力で世界を創造され、イスラエルを選び、罪あるイスラエルを捕囚の民とされたが、今や贖う神として、力を持ってこられ、この世界と歴史に介入される、そこに救いがあります。この神が不変の力で歴史を支配と救いのために働かれる時、

疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(29-31節)

という力に人は与ります。だから、どのような苦しみの中でも立ち上がることができるようになります。

 

6.第二イザヤのメッセージの現代的意義

グローバルに展開される経済活動の中で、個別の人間の生き方は大きく左右されます。アメリカで始まった金融危機は世界中にその影響を与えています。しかし、世界をリードする国は、この歴史の中で絶えず変化していきます。これから先世界はどうなるのか、なかなか見通しが立たない、と多くの識者が述べています。わたしたちの人生や信仰も、その影響を受けながらの歩みとならざるを得ません。だから、神の支配の現実に目を向けない生き方をする者は、自己の存在理由について盲目にならざるを得ず、その生はいつまでも確かなものにならず、いつも不安で揺れ動いたままになります。

しかし、この世界と歴史を支配する究極の力は神にあると第二イザヤは告げています。その神の支配の不変性の根拠を創造論から論じる第二イザヤは、神が永遠不変の存在であるからこそ、不変の愛の憐れみをもって、選びの民イスラエルを導くことができ、そして未来においても導くことができると告げています。その神の支配と導きは、ご自身の被造物である世界と歴史の限定を受けません。それらを超える永遠のものとして与えられており、世界のすべての国、すべての人、すべての宗教をも支配していることを第二イザヤは明らかにしています。

だから、この神が語られる神の言葉の永遠性と不変性こそ、「不確実性の時代」といわれる時代の只中にあっても、唯一つ変ることのない人生の土台となりうるものであることを第二イザヤは示します。歴史を支配しうる真の神を知らない人間の生は、時代や文化や国境の制約の中で、人間の手で造られた巨大な歯車のように動く複雑な仕組みに取り込まれて、まるで偶像の神に支配されるように呪縛されて、そこから逃れることができないように感じて苦しみながら生きざるを得ません。しかし、それらの生は、神が意志されれば簡単に崩壊していくものです。だから、わたしたちの人生は、荒野をも泉に変え、平らにされる神に対して道を通すことが大切です。第二イザヤは、砂漠化する苦悩する世界に生きるものに向かって、

渇きを覚えている者は皆、
水のところに来るがよい。
銀を持たない者も来るがよい。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い
飢えを満たさぬもののために労するのか。
わたしに聞き従えば
良いものを食べることができる。
あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。(イザヤ55章1-2節)

と無償の愛と恵みを施す神の下に来るよう招きの言葉を語っています。そして、

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。
雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書55章8-11節)

とその預言の結びとして、この神の言葉の確かさの上に、わたしたちの人生の土台を据える人は、永遠に失われない希望に生きることができることを、第二イザヤは今もわたしたちに語りかけています。

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