キリスト教講座

第17回キリスト教講座『地震と教会とコミュニティー-東海・南海地震への備えは大丈夫なのか-』

日時 2008年4月26日(土)午後2時-4時
場所 日本キリスト改革派八事教会
講師 鳥井一夫牧師

 

2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

3 わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも

4 海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。(詩編46:2-4)

 

1.大地震では何が起こるか

(1) その時何が起こったか-阪神淡路大震災を体験して

わたくしは、阪神大震災を神戸市の西端にある垂水区で体験しました。震源の淡路島北淡町からは一番近いところにある恵泉教会の牧師をしていたときのことです。ギシャギシャギシャという突然の激しい揺れに、一体何が起こったのか暗闇の中で頭は混乱し理解できなかった。まるで巨大なブルドーザーで家全体をゆすっているような揺れでした。数秒後、大変な地震が起こっていることに気づく。その異様な音は、家がきしむ音に食器が割れる音が組み合わさって出た音だ。教会は、幸い数箇所にクラックができる程度の被害で済みました。しかし、食器の大半とテレビが落壊しました。震源に一番近い垂水区は、神戸市の中でも比較的小さな被害ですみました。西区や北区はもっと軽微でした。おそらく垂水区の震度は6強か6弱程度であったのでしょう。それでも半壊・全壊の家もかなりあります。教会員のなかにも全壊・半壊の家はありましたが、幸い怪我をした人はなく一安心しました。その日の午後にガスは来なくなりましたが、水道も電気も通っていたので、特別大きな生活上の困難はありませんでした。しかし、垂水区でもほとんどが断水していて、教会の庭の水道には、知らないうちに給水の列ができていました。電話は通じにくい状態でしたが、それでもひっきりなしに安否確認の電話が入りました。当時は未だ携帯電話が普及していない時代で、安否確認はもっぱら電話です。須磨区にある妻の実家から、屋根瓦や壁が落ち、ガス・水道・電気のライフ・ラインがすべて停止したとの連絡が入りましたが、そちらに向かうことができたのは午後2時過ぎてから、自転車に乗って出かけました。この日から、自転車に乗って震災対策の仕事にいくのが日課になりました(地震後の町は、道路が寸断・混乱し、日常ならわずか30分の距離を遠回りして2、3時間くらいかけないと目的地につかない状況でしたので、自転車とバイクが一番便利な乗り物でした。また、倒壊家屋で道が塞がれていても、自転車なら担いで通ることができますので、地震の時には自転車が一番よい交通手段となります)。JRの須磨駅の北側は軒並み倒壊し火災が発生していました。道路は停電で信号機は作動せず、交通規制もなされず混乱し、パトカー、消防車、救急車はサイレンを鳴らしても一行に進まない。その横を自転車はすいすい走ることができました。地獄絵さながらの光景を見て、妻の実家に30分少しかけてたどり着きました。もって行ったわずかばかりの食料やお茶を渡し、しばらく話した後、その日は帰りました。その夜、電話で板宿教会(須磨区の東で長田区に隣接して被害の大きかった地域)が避難所となり、芦屋教会の会堂が倒壊していること、神戸長田教会も相当な被害を受けていること、板宿教会員のO姉(わたしたち夫婦の結婚式における立証人)が倒壊した家の下敷きになり呼んでも返事がない等々の報せを受け、翌日午前、自転車で、板宿教会に行く。板宿教会は最大で200名以上の人が避難していました。当時無牧であったため、西牧夫神学生(当時、現在は灘教会牧師)が教会の留守番をしている時に被災。教会の長老と相談の上、避難者の受け入れを決めた。その西神学生が板宿教会近くの妙法寺川に水を汲みに行くところで出会う。倒壊している家の下敷きになっている人を救出する時にしたらしい怪我が目の付近にあった。水汲みは避難者が使うトイレのため。板宿地区の断水は2ヶ月に及ぶ。板宿教会を尋ねたあと午後2時半ごろ、O姉の家に向う。板宿教会周辺も、O姉宅へ行く長田区は、昨日見た光景よりも悲惨だ。まるで空爆にあったように百メートルを越える一区画が丸焼けという所、ミキサーでかき混ぜたように倒壊した家、倒壊家屋が飛び出して通れないところもある。地形が様変わりして、家を探すのに一苦労。あるべき道がなく、目標とする建物が倒壊してなく、やっとの思いで家を見つけることができたのは午後4時少し前。普段なら板宿教会から歩いても10分程度の距離なのに、1時間以上もかかった。4時半に自衛隊が来てくれると聞き、救出作業を手伝うことにした。適した道具がない状態での、瓦はがし、漆喰はがしの作業は遅々として進まない。自衛隊のレスキュー部隊が十人ほど来て手際のよい作業が始まって1時間後、布団に寝たままの遺体が引っ張り出された。遺体は死亡確認のため一旦近くの高校に運ばれた。既に日が暮れかかっていたので、翌日の午後1時に密葬の打ち合わせをする約束をして分かれる。連絡に電話は使えないので、帰る途中、再び板宿教会に立ち寄り、教会の長老にO姉の亡くなった事を伝え、避難所となっている板宿教会で葬儀を行うことができないので、恵泉教会で密葬を行うこと、その連絡の依頼などをして、帰途についたのは午後7時過ぎ。街路灯も信号機もない真っ暗な異様な雰囲気の漂う道路に自転車を走らせて家に着いたのは午後8時。翌日、葬儀の打ち合わせを済ませ、午後2時、高校の体育館に遺体を引き取りに行く。玄関は、棺を組み立てる金槌の音が響く異様な光景だ。次々と運ばれる遺体の多さに棺が間に合わないためだ。遺体安置場所には、焼け焦げて小さくなっている遺体にしがみついて離れない遺族もいる。遺体の引き取りも、搬送もすべて自前、火葬場との交渉もすべて遺族の仕事。死亡証明は区役所が停電していてコピーが取れないので、火葬許可証しかもらえない。ワゴン車に4人が乗り、棺を入れてひしめき合うようにして運ぶ。ほとんどが規制状態の道路をまともに走ったのではいつになるか分らないので、高速道路の橋脚が傾いて危険なその下にある規制中の国道2号線を走ることを決意し、そこを突破しようとした。案の定、警察官に制止されたが、遺体を運んでいるということで許可された。警察官は、「気をつけていってください」といったが、車内で「橋脚が傾いているのにどう気をつけろというのだろう」と笑いながら車を走らせた。そうして1時間もかからず、恵泉教会まで運べたのは、当時の道路事情を考えると奇跡に近い。教会に到着し、前日予約していた葬儀社に電話するが通じないので、同社まで乗り込み直談判。霊柩車は西宮にあるので、道路事情を考えると垂水まではもっていけないというのを、無理を言って頼み込み、ついに夜間に走らせて間に合わせるとの返事をもらう。翌1月20日、ジャージー姿の遺族の臨席する中でO姉の葬儀を行った。今振り返ると、あの非常時に葬儀そのものを行いえたこと自体が奇跡のように思える。

 

(2) 対策本部の仕事をして

板宿教会、神戸長田教会、灘教会、神港教会の順で、被災状況などをヒアリングし、メモを取って、西部中会有志による対策委員会が既に設置されていた神戸改革派神学校に行った日が、震災から4日目の1月21日だったのか、翌週の24日だったのか、その記憶は定かではない。1月24日(火)に大会執事活動委員会の阪神大震災対策委員会が設置され、小生が現地対策副本部長の立場で働くことになった。その席で、ヒアリングした信徒と教会の被災状況を伝えた。しかし、その情報は限られたものだ。全ての被災教会と信徒の被害状況を現地の教会で調査してもらい、それをニュースにして全教会に伝えることを提案。それは、26日発行の「ニュース2号」で発表されることになった。当面の対策本部の仕事は、被害が甚大な芦屋教会、神戸長田教会、板宿教会のサポートに力を入れるというものであった。対策本部の仕事がポリシーを持って活動ができるようになったのは、2月1日(水)にCRC(北米改革派教会ミッション)の視察団の訪問を受けてからのこと。そこで以下の助言をいただいた。

①大切なことは被災者への愛の思いであり、何が一番必要であるかを決めるための情報収集が大切。

②何より大切なことは、自分の行動計画と援助計画を立てること。外部団体はそのプランを見て支援を考える。

③援助を受ける教会(団体)の留意すべき事。

ⅰ 責任を持って献金の管理と報告ができること。
ⅱ よく考えて結論を出すこと。最大の必要性、救済のために使うこと。
ⅲ 外部に証ししようとする教会であること
ⅳ 支援を受けた教会は周囲(地域)に対しても10%は捧げることが大切。

④回復期の救済活動の実際

十週間経てば被害の実態が自分で分るようになる。この時期に、調査書により被害状況を調べ、対策を練り、援助の優先順位をつけ実施する。

この助言によって、対策本部の仕事は明確な方向づけを得た。2月6日(月)に第1回拡大委員会を開き、「阪神大震災被災救済計画」を決定し、それを2月8日発行のニュース№4で発表。それは、教会堂再建支援、被災信徒の救済、社会的援助を三つの柱とする(Ⅰ)救済理念、(Ⅱ)救済対象教会・信徒の確定、(Ⅲ)募金目標総額からなっている。小生の受け持った主な仕事は、被災信徒へのアンケートの作成と援助基準の作成と支給額の確定作業。これは現地の教会の状況を一番よく知っているということで担当することになった。

教会は日常的にも一つのコミュニティー(共同体)を形成している。そして、そのつながりは、全国に、また世界的な規模でネットワークをもっている。対策本部が作成したニュースは、CRCミッションのスパーリンク宣教師がその日のうちに英訳して、インターネットでミッション協力している世界中の教会にも伝えられた。被災地にある教会は地域の被災者とコミュニティーとしての働きを必ずしも日常的に持てているわけではないが、CRCの視察団はその重要性に対する認識を深化させることを教えてくれた。神学校と板宿教会で避難所としての働きを通してその役割を少しでも果たせたことは大変意義のあることであった。勿論、どの教会でも、どの場合でもそれが可能なわけではない。それが果たしうる教会の規模と体制が必要。また、対策本部との連携でボランティアーを適切に確保する必要がある。信仰の共同体として被災教会と被災信徒の救済支援を行うことがでたことを主なる神に感謝!

対策本部の体験でわかったことは、自分たちが持っていなくても、それを教えてくれる協力ミッションがあるということ。しかもそれが世界規模の信仰共同体のネットワークを持っているという強み。そして、その背後にあって支配しておられる神の守りと助けがそのような現実の人間の営為の中に表わされるという具体的な信仰を持つ大切さ。大震災という非常時に、被災地域のことも考えて共に生きる共同体としての教会の社会的責任とその自覚を与えられたこと、等々。

 

2.検証

(1)阪神淡路大震災とは、どんな地震であったか

地震は、一般的にプレート境界型(海溝型)と直下型(断層型)に大きく分けられる。地震のエネルギーはマグニチュードで表わされる。マグニチュードが1違うと、エネルギーは32倍、2違うと1024倍にもなる。阪神大震災は、直下型地震で、マグニチュードは7.2、頻発する海溝型地震と比べれば、規模は一回り小さい方だといわれる。しかし、地震の揺れは最大級の震度7であった。本震の主要な破壊は、明石海峡直下深さ17キロを発震点として神戸方向に30キロ、淡路方向に20キロ伝播して停止した。阪神大震災は「震災の帯」という言葉に要約され、既知の活断層から海岸側にずれたところで、長さ約20キロ、幅約1キロに帯状の地域に被害が集中した【図1】。兵庫県内における建物の被害は、全壊が92,877棟、半壊は99,829棟で、関東大震災の8割近い数です。「震災の帯」に当たる激甚被害地では、コンクリート系・鉄骨系の全被害棟数は4,690棟で、倒壊・大破は23%に達した。とりわけ被害が集中したのは、神戸市中央区(県庁と市役所の所在地)で、被害棟数は全体の66%という高率になっている。

地震は1995年1月17日午前5時46分に発生し、揺れた時間はわずか18秒。しかし、地震を体験したものには1分以上揺れたと感じた。発生時刻が午前5時46分の未明の地震であったため多くの人が未だ眠っていた。その時間はほとんどの人が家にいて被災した。地震の被害は、その起きた時間によってさまざまな形を取る。同じ規模の地震でも、違う時間帯に起きていれば被害の形態も違ったものになる可能性がある。阪神淡路大震災による死者の発生要因は、柱などによる下敷きが全体の74%、家具類の下敷きが20%であった。そして、監察医、法医学の検死(2,416人)によれば、神戸市内の犠牲者の92%は、地震から14分以内に亡くなっており、76%は倒壊した家屋や家具などの下敷きになって「圧死」したと推定されている。午前5時59分までに死亡したと考えられるのは、2,598人で、神戸市の地震による死亡者4,485人の71.2%に相当する。大地震では、初期対応が大事だといわれる。特に「最初の二日間」が大事だといわれている。阪神大震災のこの死亡原因の結果から見れば、その対策は不可能なように思える。確かにそのような問題も多くある。しかし、圧死者の中には、内臓破裂や、倒壊物の下敷きになり大怪我をし、出血多量や処置の遅れが原因で亡くなった人も含まれる。また、家具や柱の下敷きになり圧迫された時間が長く続いたあと助けられたが、クラッシュ症候群で死亡した人もいる。これは身体の一部、特に四肢が長時間圧迫を受け、その後、圧迫された状態から解放されると、壊死(えし)した筋細胞からカリウム、ミオグロビン、乳酸などが血液中に大量に漏出する。発症すると意識の混濁、チアノーゼ、失禁などの症状がでる。高カリウム血症により心室細動、心停止が引き起こされたり、ミオグロビンにより腎臓の尿細管が壊死し急性腎不全を起こす。助け出され圧迫から解放された直後は、意識があるために軽症とみなされ、その後重篤(じゅうとく)となり死に至ることも少なくない。阪神大震災では、約400人が発症し、そのうち約50人が死亡した。こうした災害は迅速な対応と正しい知識があれば、多くは防ぎ得るもの。そして、建物の倒壊と家具の転倒などは事前の対策が十分に施されていれば防ぎ得たものが多くある。

 

(2)大地震では何が起こるか

国や県市町村では一応震度5強を超える地震の防災を想定している。なぜ、そのレベルからの防災想定をしているのか説明を聞いたことがないので、その是非を論じられないが、5弱を超えるとどの程度の災害が出るか防災センターが発表しているものを参考に考えるのがよい(下表参照)。

第17回キリスト教講座『地震と教会とコミュニティー-東海・南海地震への備えは大丈夫なのか-』

耐震偽装や手抜き工事がない限り、通常、建物は震度6以上でないと大きな損傷は受けないようにできているはず。国の基準も大体その程度のことを考えているといってよい。しかし、高度経済成長期の建物や鉄道・道路施設には、多くの手抜き工事や、ふさわしくない素材の使用により、倒壊、損壊、落下などの大きな被害が出たものがある。5強ではじめてタンスなどの転倒が起こるとすれば、それを起こさないようにするためには止め具などをつければ転倒防止に役立つ。そう見ると大きな被害が出るのは震度6以上の場合を想定したらよい。実際、水道、ガス、電気のライフ・ラインの被害が大きくなるのも震度6以上。しかし、地盤によっては震度5強でも被害が出ている地域もある。他方、建物も基礎も丈夫にしている建物では、震度7の激震にあってもほとんど被害を受けなかったものが多くある。昭和30年代からある当時としては高層ビルに属する、神戸市役所旧庁舎、神戸新聞会館、国際会館、阪急会館、交通センタービルは全壊もしくは大破した。神戸市役所以外はその後、撤去ないし建替えられた。兵庫県庁も大きな被害を受けた。兵庫県の行政の中心部がこのように大打撃を受けた。それだけではない。神戸市の西市民病院は大破し、県下随一といわれる人工島ポートアイランドに新しく建てられた中央市民病院は、市街地と結ぶ神戸大橋が不通になったため、震災直後ほとんど機能しなかった。病院も屋上にあった貯水槽が壊れ、10,11階が水浸しになり、地下水層から汲み上げられた水はすぐに底をつき、水冷式で作動する圧縮空気の供給が止まり、人工呼吸器が動かなくなるなど甚大な被害を受けた。地震から4日後の21日に神戸大橋が開通してからは、1ヶ月に533人の搬送患者を受け入れることができるようになったが、救急医療センターとして、足場の弱い人工島に病院を設置した神戸市の責任は免れがたいという批判もある。多くの自治体が震度5強を想定して防災を考えているとのことだが、大きな地震の経験のない神戸市は実は震度5強程度の地震しか想定せずに都市計画を立てていたように思えてならない。おそらくそれは神戸市だけでなく、現実には、多くの都市でもそうではないかと思う。神戸市はこれまで台風による水害は多く経験していたので、それに備える砂防ダムの建設や対策はかなり高い水準で対応できるようになっていたと思われるが、地震には無防備な都市であったと思う。

水道、ガス、電気のライフ・ラインは、震度6以上の地震ではほとんど軒並み大きな被害を受けると考えたほうがよい。水道・ガスの配管は道路の下に埋設されていて、震度5程度の強度にしか持ちこたえられない状況にあると考えるべき。先日のニュースで、ガス管の強度を上げるためにアクリル配管に切り替えるという話を聞いたが、シュミレーション上その方が強いといっても実際の地震でテストされていないので、従来と同じ埋設法で耐えられるか疑問が残る。また、それは本管部分の対策でしかなく、各家庭での引き入れ口からの配管は自己負担での対応が求められているので、その部分での破損は避けられないという問題も残っている。とにかく震度6以上では大きな地割れが起こり、大きな被害をもたらすことがある。建物は大丈夫でも、断水、ガスの供給停止、停電という事態が同時に発生する。停電は、たいてい2,3日もあれば回復する。どんなに長くかかっても1週間もあれば回復する。しかし、水道とガスの復旧は長くかかる。特にガスの復旧は、ガス漏れの検査を慎重の行う必要があるので、長くかかる。震度7の地震では、壊れた水道管やガス管の中に泥などが詰まり復旧に長い時間がかかる。水道が通るまで1~2ヶ月かかったところが多くある。ガスはもっと長く、復旧に2~3ヶ月かかったところもある。地震で家も壊れ、避難所での生活をする人もいるが、家は大丈夫だったので、普段どおりの生活をしようとした人がいる。しかし、給水や食事をするための煮炊きに困った人が多くいる。特に、都市では水洗が当たり前になっているので、断水状態が1ヶ月も2ヶ月も続き、給水のために重いポリタンクを何度も担いで腰や靭帯(じんたい)を痛めたという人が多くある。

阪神大震災では多くの地震火災が発生した。大震災での火災発生は294件、内260件は兵庫県、とりわけ神戸市は被害が多く、焼損計65万平方メートルのうち97.5%の63万5千平方メートルを占めた。神戸では全棟数の1.5%が全半焼した計算。神戸だけに絞って見ると、地震当日に109件、翌日14件、翌々日に15件、計175件の火災が起きている。だが1万平方メートルを超える大規模火災14件はすべて初日に発生し、地震から6時間以内に大小60件という同時多発型の火災となった。

大震災が起こった時、神戸市消防局では、職員1,329人、128隊のうち、ポンプ車22、タンク車7、救助車11、救急車27、特殊車13の合計80隊、が配置についていた。休みで自宅にいた職員の5割は発生から2時間後、9割は5時間後に参集した。他都道府県からの応援部隊は被災地全体で初日に約900人、翌18日にも約1000人が現地入りし、25日までに2000人以上の応援体制を維持し続けた。消防関係者は不眠不休の体制で消火や倒壊家屋の下に埋まっている人の救出に当ったが、激甚災害では、被災都市の持つ防災システムだけでは機能しないこと、また断水により、消防車や消防士がいても消火に当たることができないという問題を露呈させた。

そして、注目したいのは、特定された火災原因84件のうち、最も多かったのは電気関係で約4割、次いでガスの約2割、電気関連火災で多かったのが、電気ストーブおよび熱帯魚水槽からの火災。それらは、停電したためにその危険性に気づかず避難してしまったか、電気の回復により発生したものがほとんど。避難する時は、ブレーカーを切るか、コンセントを抜くことが大切。地震の最中に火を使っていた人で、火の始末をした人は約4割、揺れが収まった直後にした人は14%で、約半数の人が火の始末をしていなかったという調査も報告されている。直下型の激震で、家屋が直後に倒壊していれば、電気系統の始末そのものが困難な場合もあるが、コンセントを抜くとか、火の始末を適切にしていれば防ぎえたものもある。石油ストーブからの出火が多発した1968年の十勝沖地震をきっかけに、簡易消化装置を全石油ストーブに取り付けることが義務づけられていたので、意外にも、阪神大震災では、その原因での火災の事は聞いていない。

 

(3)地震情報、自治体・国の対応能力の問題

NHK神戸放送局は地震で大破した。その時の揺れの凄まじさは、前月に設置したばかりの「スキップバックレコーダー」が記録していたので、その映像をテレビで見た人は多くいると思う。神戸放送局と神戸海洋気象台は電話回線でつながっており、担当者は「震度6」をモニターで確認し、その情報は近畿の拠点であるNHK大阪の報道部に直ちに送られた。大阪の報道部は、午前5時50分、近畿ブロックで「神戸震度6」の情報を流した。これが事態を正確に伝えた事実上のスクープだった、といわれている。しかし、同じ5時50分、東京発のNHK放送では、「東海地方で強い揺れ」と放送していた。気象庁は、全国の地震情報を管区気象台経由で集約している。気象庁が発信した第一報は「岐阜震度4」が最大だったため、「東海地方」という結果になった。大阪管区気象台の地震情報は遅れて到達。1分後に、NHKは「東海」を「関西」に修正し、さらに5時53分から、全国の放送を東京発に切り替えた。だが、大阪管区気象台からの情報に「神戸震度6」が入っていない。気象庁からの確認を取ってからニュースを流すようにしていたので、その確認が取れない以上やむ得ないことだったといえるかもしれない。午前6時9分、NHKは、「震度6はありません。失礼しました」と訂正さえ行っている。神戸海洋気象台から発信された情報は大阪管区気象台に到達せず、NHK神戸放送局という別の経路で大阪に届き、東京に達した段階で本庁の確認が取れないため、そこで打ち消されることになった。神戸海洋気象台の職員がラジオを聴いて「神戸の震度が入っていない」異変に気づき、手入力の無線通信で、大阪管区気象台に6時3分から3分間かけて「神戸震度6」を通報した。大阪管区気象台が「神戸震度6」を発表したのは6時13分、本庁からオンライン速報を送ったのは6時14分、NHKは6時15分に、「震度6、神戸が確認されました」と放送した。正確な情報が伝えられるまで地震発生から30分を要している。村山富一首相(当時)は、6時過ぎに起きてテレビを見ていたが、「神戸・洲本震度6」が確認される前。その後も情報は刻々と修正された。阪神大震災の事例は、最も被害の大きな被災地からの情報が、通信の途絶で遮断された時、自治体や政府、行政機関、メディアはその「情報空白」をどう埋めるかという課題を残した。

兵庫県は職員の当直制度を取っておらず、災害発生と同時に防災担当者が出勤することになっているため、その担当課長が県庁に到着したのは午前6時45分頃、間もなく副知事が駆けつけ、6時50分、神戸海洋気象台から「神戸震度6」の情報を寄せられ、すぐに災害対策基本法に基づく件災害対策本部を設置し、7時過ぎに副知事がかけた電話がようやく知事公舎につながり、貝原知事が登庁したのは午前8時20分、第1回の対策本部会議が午前8時半に開かれたが、21人の本部員のうち参加できたのは知事と副知事、3人の部長だけ。本部事務局を担う災害担当職員も2人だけだった。地震発生から3時間近くたってその中枢が得ていた情報のすべてが「目下状況把握中」「全容不明」。震災初日、登庁した県職員は2割程度、82億円かけて防災行政無線ネットワークを構築していたが、肝心の初動時にはまったく役に立たず、17日午後0時5分まで、そのネットワークは停止していた。地震で冷却水を送るパイプが切れ、自家発電装置が機能せず、消防庁との行政無線も午後7時まで使えず、無線室も破壊され立ち入りできなかった。

警察の地震被害把握も迅速に行えなかった。地震発生から3時間半後の午前9時20分に出された兵庫県警第1回地震被害発表では、「死者8人、生き埋め189人以上、不明33人」、同10時過ぎ警察庁発表「兵庫県内で223人生き埋めの模様」、同10時55分「死者74人、負傷者222人」、正午「死者203人、負傷者711人、行方不明者331人」となっている。警察庁発表の死者数が激変するのは午後になってからで、村山富一首相が「エーッ」と驚きの声を上げ、事態の深刻さを認識したのは、正午の警察発表を聞いた時だった、といわれている。地震から半日が経過した午後6時には、死者千人を超える発表がなされた。

この被害把握と発表の遅れにはいくつかの原因が指摘されている。住民からは最寄の署や交番に住民の救出訴えがなされ、警察は場所の聞き取りをしている最中に、現場から次々に応援要請や家屋倒壊の連絡が入り、現場に向かった署員は、救出を頼まれ、素手に近い状態で瓦礫に向かうことになり、実態把握より先に人命救助を行わざるを得なかったという事情もある。ある意味において情報は十分過ぎるほどあった。しかし交番から所轄所への通信が混戦・錯綜した。初日に110番通報は6,500件を越し、出先に派遣した職員からの連絡がなく、末端情報は滞り、あらゆる機能が停止・麻痺していた。

こうした事態による情報の遅れ、被災場所と被災の実態把握の遅れは、救済策の対応の遅れにつながる。言い換えれば防ぎうる被害を拡大させる原因にもなる。それをどう防ぐかという問題はなかなか難しい問題である。阪神大震災の事例は、結局、自治体の防災・被災把握システム、救済機関の人的・物的対応力は、都市に置ける激甚災害ではほとんど初期対応ができないことを示した。その後、各自治体の取り組みで改善されたものもあるかもしれないが、根本的な解決が図られたと思えない。最も大切な「最初の2日間」の対応と、その被害を最小にするのは、やはり被災者自身の取り組み、日常からの住民のコミュニティー作りにかかっている、といまのところ考える必要がある。

3.防災コミュニティー作りの必要性

地震で一番大事だといわれる、「最初の2日間」は、救済も被災者支援も、行政や救済機関の手が一番及びにくい時間である。言い換えれば、それは被災者自身が対応しなければならない、そうせざるを得ないという現実を認識する必要がある。つまり、倒壊した家屋や家具の中から人を助けるのは、被災者の手作業でどれだけ迅速に行えるかにかかっている。倒壊した家の下敷きになっているのは人間。そこには起重機もない。どういう状況で下敷きになっているか分からない。その状況下で、手作業で安否を確かめながら救出作業を進めていかねばならない。「大震災が起こった時、神戸市消防局では、職員1,329人、128隊」であったことを先に指摘したが、これだけの人数で、何万人もの倒壊家屋の下敷き、あるいはその中いる人の救済に間に合わないことは歴然としている。この事実を冷静に受け止めるなら、防災システムを住民自身が日頃から検討し、準備しておく必要があることがわかる。

まずそのためには、防災コミュニティー作りが必要となる。

実は私も未経験の分野である。しかし、大震災の経験者としてある程度何が必要かわかる。それは何が起こるかを想定してのものでしかないことを断っておく。震災後の生活は、日々にその必要が変る。だからそれがどう変るかイメージすることが必要。それをに以下に記す。

① 家屋の倒壊・家具の下敷きのものを助け出すために必要なこと

自分の住んでいる地域に住んでいる人が誰であるか判らなければ、その救出が遅れることがある。つまり、どこに誰の家があり、そこには何人の人が住んでいるのか把握されていれば、助け出す時のイメージが描きやすくなる。その点では、まず防災コミュニティーを立ち上げてすべきことは、防災地図。プライバシーの問題もあるが、何々家は何人、年齢、性別などの大まかな把握ができている必要がある。地震はいつ起こるか分らない。多くの家族が不在で、高齢者や子供だけが家にいる時に地震は襲ってくるかもしれない。その時家族ではなく、近所の助け合いによって救出作業をしなければならない。防災地図はそのために必要なもの。

第二に、現実に地震が起こり、倒壊家屋や、家具の下敷きになったり、家の中に閉じ込められ、未だ命がある場合どうするか。まずそのような目にあった人自身が、大声を上げて、できるだけ具体的にいる場所と状況を伝えることが大切。時間を無駄に使い場所を探している間に、家屋や家具の下敷きになって怪我をしている人を救出しても、遅かったために命が助からなくなることがあるからです。下敷きになっていないが家の中に閉じ込められている場合、火災の心配のない時は、その人の救出は後に回すことも必要なことがある。緊急性のある人を優先することが大切。それは、クラッシュ症候群の被害を少なくするために必要なことでまある。

第三に、救出作業をどうするか。倒壊家屋から救出するには、多くの人手と道具がなければ迅速に行うことができない。防災コミュニティーを立ち上げたなら、救済のための道具を整えておくことが大切。それがある場所を町内の人皆が把握しておくことも必要。救出には、建設現場で使うバールがまず必要となる。これはホームセンターで、2千円以下で購入することができる。仮に100軒のコミュニティーであれば、5本くらいは必要。人間の手で持ち上げられるのはせいぜい100キロから200キロが限度。バアルはてこの原理でそれ以上の重さのものを持ち上げることができ、わずかの隙間に入れることもできる。壁を破壊して中に入らなければならないときも使える。その場合、皮の手袋と防災グラスが必要。それは、破片が飛び散って目に入らないようにし、手に怪我をしないため。それ以上の重さを持ち上げねばならないときは、車を持ち上げるジャッキでする。パンタ型のジャッキでは1000キロ、油圧式では2000キロを持ち上げることができる。少し持ち上がれば、その間に適当な角材などを入れ、隙間を徐々に大きくすれば人が通れるようになる。こうした作業は、5から10人くらいでチームを組めば手際よくできる。

② ライフ・ラインが停止した時、消火の協力体制をどうするか

地震で一番困るのは断水。消火活動も日常の生活にも大きな影響を与えるからだ。各家庭においては、風呂の水は流さないことが大切。断水した時、水洗トイレが使えなくなるから。また、火災の時、それを消火に用いることができる。しかし、その水はせいぜいもって2、3日。その後の給水が大変。町には高齢者や身体の不自由な人がいる。また、高層アパートやエレベーターのない5階以下の中層住宅に住んでいる人もいる。その水汲みは大変な作業となる。それができないために避難所生活をする人もいる。防災コミュニティーでは、水汲み班を作り、当番制にして役割分担を決めるのも大切だが、あまりマニュアル化せず、メンバーの顔ぶれを見て臨機応変な対応も必要。近隣の水道が通っている箇所を把握するのも大切。水が通っている地域は、そのことを他の地域にすばやく知らせるのも大切。また自治体と交渉して、無償で分け合った分の水道料の免除をしてもらうようかけあう知恵も必要。大量の水をどう運ぶかも大きな問題。灯油を入れるポリタンクには18リットル乃至20リットルの水を入れることができるが、案外運ぶのに不便な場合もある。安価でお勧めなのが、ミカンを入れる程度の大きさの段ボール箱。その内側に45リトルのポリ袋を2重にして入れ、その中に水を入れる方法。約30円の費用ですむ。そして、これだと最大25リットルほど入る。運ぶ人の力などを考えてその量を決めればよい。水の確保のために川や湧き水のあるところまで出かけなければならない。大量に運ぶには、ポリタンクよりも、この方が自動車で運びやすいかもしれない。いずれにせよ重いので搬送用の台車などがあれば便利。折畳み用でも50キロまで運べる。また、地域防災のためには、防火用としても、この方式による貯水を常時5個程度置いておくのもよいかもしれない。防火水槽だと、ボウフラやカの発生の問題が起きるが、これではその心配がない。ただし、水の取替えを年1回くらいはした方がよい。

③ 避難所での生活上の混乱を避けるために必要なこと

家の倒壊や恐怖心から、避難所に避難する人が多い。学校や公共施設のほか、教会や民間の施設が避難所になることがある。民間施設の場合、長期間の避難者の受け入れは難しい。最大で2ヶ月、場合によっては1,2週間しか受け入れられないということもある。避難所では、ボランティアや行政担当者や学校の先生が世話をしてくれることがあるが、基本的には、被災者自身が自治の精神を持って避難生活をすることが大切。震災から立ち上がるには被災者自身の意志と力がなければできないので、その意志を持つことが大切。避難所にはほとんど同じ地域の人が避難する。救援物資の配給や大まかな世話を公的機関やボランティアの人がしてくれたとしても、その分配は自分たちで自治的に決めるほうが争いや誤解を少なくすることができる。ボランティアで奉仕をする人もそのことを心得ておくことが大切。

そして、避難所では場所取りに先を競って、結局、高齢者や弱者が廊下や不便な場所に追いやられることが起こりやすい。いわゆる「震災弱者」が生まれる。高齢の人や、ハンディーを持つ人は、トイレに行くのも大変。食事も、配給される弁当など、普段から食事制限がある人が避難している場合、それによって体調を悪化させることがある。

④ 震災弱者を作り出さないために

避難所での災害弱者を出さないためには、避難所でのコミュニティー作りが大切。基本的には近い町内の人が多くいるわけだから、いくつかのグループに分けて、リーダーを決め、食事や水、また物資の配給などの必要をよく把握し、必要な人に必要なものが届くよう、各グループごとに話し合うことが大切。避難生活を快適にするために、ダンボールなどを上手に活用し、着替えの場所や目線より高い仕切りなどを作り、避難所でのより快適な生活を工夫することもできる。ただ、最初の数日間は、多数の避難者がいるので、そうした工夫もしにくい面がある。身を寄せることができる家族や知人の家に避難する人が増えるに連れて、避難所には少しづつスペースができるようになる。しかし同時に、よいリーダー役をしていた人がいなくなることもある。震災での避難生活は、必要なものがどんどん変化していく。その必要の変化に応じたコミュニティーのあり方、援助のあり方も変化する。その変化に臨機応変に対応することが大切。

⑤ 情報をいかに共有するか

避難所では、行政からの情報が早い段階で伝えられる利便性がある。しかし、お年寄りや耳や目の不自由な人には、その情報が伝わらない場合もある。だから、そうした人にも情報が伝わるように、自治的な対応をできるシステムを避難所の中で確立する必要がある。グループリーダーのほかに、これを補助する報道官的な役割を作ることも大切。また、病人や体調の悪い人や精神的にまいっている人を見つけ出し、避難所の責任者に伝えて医療機関に連絡するなどの世話をする人もいる。こうしたことをボランティアの人や、行政担当者の仕事と決め付けるのはよくない。大震災では、その世話をする人の数が不足している。自分たちの仲間の困窮を適切に訴え、早く解決するのは仲間の愛による助け合いの問題。

避難所にいない人は、時々避難所に行くか、役所などに自分で問い合わせる必要がある。また、防災コミュニティーを自分たちで作っているところでは、それを行政に伝え、必要な情報をもらえるようにしておくことも大切な知恵。

⑥ 孤独との戦い-心のケアをどうするか

震災では必ずといってよいほど、孤立し孤独感にさいなまれる人が出る。震災ボランティアによる炊き出しや色んなイベントなどがよくメディアで紹介されるが、それは確かに孤独感に襲われている人を一時的に癒してくれる面もある。しかし、被災者たちによる連帯がそのケアに一番役立つ。同じ被災地域に適当な空間があれば、そこで時々、食事会をもつのもよい方法。人間は食べながら、心の中にある問題をぽろぽろと話し出すもの。もともと地域の人との付き合いが上手くいている地域では、それは自然にできるが、隣に誰が住んでいるか分らない、気にも留めていなかったというところでは、それも難しいかもしれないが、全部の人でなくても、誰かが呼びかけて小さなグループでもそれをはじめ、加わりたい人が後に出てきた場合、その人を排除せず、その輪を広げていくことが大切。

⑦ 仮設住宅に移ってからの心のケア

神戸市は仮設住宅を被災場所と異なる遠いところに建てたため、仮設住宅には、それまであった地域との関係が断絶することが多かった。それによって孤独死や欝などの問題が生じた。行政にはそうしたケアの問題を考えて仮設住宅作りをしてほしいと願うが、防災コミュニティーはそこでも作る必要がある。特に、仮設住宅に移ればプライバシーは避難所より守られるが、孤独感に襲われる人が多くなる。仮設住宅内での適当な空間での交流や食事会を開く工夫が必要となる。元いた地域の支援や、震災ボランティアの活躍する場は、むしろこのような時に必要となる。仮設住宅にいる人は、コミュニケーション作りが余り上手でない人もいるから、そうした手助けが必要となる。

 

4.防災対策

(1)家の倒壊と家具の転倒を防ぐには

根本的には、専門家による診断が必要。しかし、費用もかかり誰もができるものではない。壁面の少ない家、筋交のない家、基礎のしっかりしていない家は、倒壊しやすい。また、後で二階を増設した家も危険。事前の対策としては、寝る時は二階を選ぶのが良い。

家具の転倒防止には、転倒防止具をつけるのが一番。「平成15年(2003年)度防災(地震)に関する意識調査」(愛知県)によれば、家具の転倒防止をしていると答えた人は31.0%。この点の意識は低い。意識改革からする必要がある。

 

(2)いざという時に備えておくべきもの、役立つもの

①風呂の水は流さないで溜めておく(トイレの流し水と消火のため)

②ペットボトル水(できれば2リットルのものを一人1本、家族の人数分)

③食料、食材は2日分、非常食も少々あるとよい。

④カセットコンロ(登山用のホエブスやブタンボンベなども非常時の食事作りに役立つ)

⑤ダンボール(みかん箱大を5個、少し大きめのもの5~10個)

⑥ポリ袋(45リットルのもの2袋)

⑦携帯ラジオ、懐中電灯、丈夫な手袋(できれば皮手袋)

⑧救急用品

⑨ジャッキ、パンタグラフ型(1トン)、油圧式(2トン)

⑩バール

⑪折りたたみ式台車(50キロ重のものを運べる)

⑫防水シート

⑬自転車、バイク(地震時の移動に便利)

⑭旧式ストーブ(ガスが止まった時の食事の準備に役立つ)

⑮防水シート(屋根瓦が落下したり、損壊したときの応急処置に役立つ)

 

(3) 非常時における連絡

①大地震にどういう状態で遭遇するか分りませんので、家族の連絡法を決めておくことが大切です。

②通勤や通学の経路も確認しておくようにしましょう。

③地震では、固定電話より、携帯電話の方がつながりやすいといわれています。また、倒壊家屋の中からも携帯で連絡を取ることもできます。

④パソコンを持っている人は、Eメールやインターネットを通じて、被災情報を伝えたり、助けを求めることができます。行政が把握しにくい被災情報を地域の防災コミュニティーでまとめて、それを伝えることもできます。

 

(4) 避難する時の注意

家屋倒壊の時は不可能かもしれませんが、半壊や避難できる状態で家を離れる時は、火災を防ぐために、必ず火の始末をし、電気ストーブ、熱帯魚の水槽のヒーターなどを切り、コンセントを抜く、できればブレーカを全て「切」にして家を出るようにする。

 

5.まとめ

今、メディアでは、東海・南海地震ことがよく取り上げられているが、この地域の人びとの防災意識はそれほど高くないように思う。しかし、尾張地方は東海・南海地震だけではない。実は、1891年10月28日に、美濃・尾張を襲った濃尾地震はマグニチュード8.4、この地震で7千2百余人が亡くなり、14万の家屋が全壊した。決して、直下型の地震が襲わない地域でも、活断層がない地域でもない。色んな形での地震が起こる可能性がある。そうした地震に対する備えは、しすぎるということはない。特に、地域の防災コミュニティー作りは急務。「自分の命は自分で守る。」このことは愛知県の防災啓発担当者がいった言葉。防災行政の要になる担当者が、自分たちの力では助けられないということを言っているようなものだが、その現実認識が実は大事。防災はその意識を持つことから始まる。

キリスト教講座