キリスト教講座

第3回キリスト教講座 旧約聖書の語る神(3) 共にある神-モーセの召命物語を通して-

日時 2005年11月13日(日)午後2時-3時
場所 日本キリスト改革派八事教会
講師 鳥井一夫牧師

 

 

【出エジプト記3章7-14節】

7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 

序.

聖書を一度も読んだことがないという人でも、モーセの名や「十戒」について少しは知っているという人は結構多くいると思います。特に、映画『十戒』で、イスラエルの民がエジプトを脱出し、海を渡り、十戒を授けられた場面を印象的に覚えている人は多くいると思います。

今日、わたしたちが旧約聖書と呼んでいる39巻の書を新約聖書は「モーセと預言者」とか「律法と預言者と詩篇」などと呼んでいます。この場合の「モーセ」と「律法」は旧約聖書の最初の五書を指しています。そう呼ばれるのは、イスラエルの民は、エジプトの地で奴隷の苦役で苦しんでいた時、神はモーセを召し出し、ご自身が誰であるかを彼に啓示し、彼を指導者としてエジプトを脱出させられ、十戒が彼を通して授けられたということを記しているこれらの書のことを、一番大切な信仰の問題として覚えてきたからです。エジプトを脱出する時、パロの軍勢に追い詰められたイスラエルが神の奇跡的な助けによって葦の海を渡り、その攻撃を免れて救われたという体験は、あらゆる時代の危機に直面して生きる人間を励まし、神に信頼し、神の教えである律法に聞き従う者に、神は同じ救いの力を現されるという信仰を育てることになりました。特に、ホセアという預言者は、その預言の中で繰り返し出エジプトの体験に言及しています。今日はこのホセアという預言者の問題にも最後に触れて、モーセに顕れ、自らを、「わたしはある。わたしはあるものだ。」と啓示された神とはどのような方か、またこの神は自ら選んだ民に約束したことをどのように果たされるのか、モーセの召命物語を通してお話したく思います。

 

1.モーセの誕生まで

先ず、モーセに顕れた神は、いったいどのような現実にご自身を現されたのかをみていきたく思います。

前回わたしたちは、ヨセフの物語を共に学びました。ヨセフは奴隷としてミデアン人の手によってエジプトに売られましたが、エジプトで王に次ぐ地位につき、エジプトを飢饉から救う働きをし、家族の危機も救い、その父ヤコブと兄弟たちはエジプトに移り住むことになるところまで学びました。

創世記は、110歳で死んだヨセフのことを記して閉じられています。ヨセフは、死ぬ時兄弟たちに、「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」と遺言し、「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」といって誓わせています。(創世記50章)

出エジプト記は、ヨセフとその兄弟たちも死に、イスラエルの人々がおびただしく数を増し、強くなり、ヨセフのことを知らない王が現れ、その王が、「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」(出エジプト1:9-10)という警告を国民に与えたという記述をもって始まっています。それは、創世記15章13節の、アブラハムに示された主の言葉、「あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。」と関連する言葉として記されています。しかし、出エジプト記12章40節には、その期間は430年であったと記されています。

いずれにせよ、イスラエルはエジプトの地で相当長い期間ヨセフのことを知らない王の下で、寄留者として奴隷として、「粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。」(1:14)といわれるほど、苦しい生活を強いられていました。それでもイスラエルの人口が増えるので、王は、ついに、ヘブライ人の助産婦に命じて、生まれてきたヘブライ人の男の子を殺すように命じます。しかし神を畏れる助産婦たちはこれを実行せず、神は彼女たちにも恵みを与えて、イスラエルの民はますます増え、強くなったといわれています。

モーセはこのような事情の下でレビ人の夫婦から生まれます。3ヶ月間は隠して育てることができましたが、王の男児殺害命令があるので、隠し切れないと判断した母親は、パピルスの籠にアスファルトとピッチを塗って、その籠が沈まないよう防水加工し、ナイル河畔の葦の茂みに置きます。置いたといっても川の中ですから、ほっておけば流れていきます。心配な姉のミリアムは、様子を茂みの間からずっと見ている。そこへ、ファラオの王女が水浴びのため川岸にやってきて、葦の茂みに浮かぶ籠を見つけ、仕え女をやってその籠の蓋を取りに行かせます。彼女は籠の蓋を開け、中にはいって泣いている男の赤ん坊みて不憫に思い、「これはきっとヘブライ人の子です」といったというのですが、どうしたものか思案したはずです。思案する時間が長引けば、いろいろ考えたあげく、川に流したかもしれません。王女が思案する一瞬のすきも与えないように、モーセの姉ミリアムは、「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んでまいりましょうか。」と絶妙のタイミングでそこにあらわれて申し出ています。そして、「そうしておくれ」という王女の返事を引き出しています。少女の機転とも思えない知恵で、実の母が乳母役として、モーセを引き取って大きくなるまで育てることが許されます。大きくなって、王女のもとに連れて行かれ、母子はそこで離れ離れになるのですが、おそらくモーセはこの母に育てられた間に、自分の出生の秘密を聞く以外ないないはずです。聖書はそのことに沈黙していますが、おそらくモーセはそのことを秘密にするよう母親から言われて、王女のもとに行ったはずです。モーセはこうして王女の子として、その後は育てられることになります。新約聖書使徒言行録7章に記されているステファノの説教の中に、モーセはこの王女のもとで、「エジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする」人物に育てられたと記されています。

出エジプト記2章10節に、こうして生れたモーセの名の由来について述べられています。エジプトの王女がモーセ(引き出す者)という名をつけたといわれますが、その由来について、「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」と述べられていますが、エジプト人の王女がヘブライ語のマ-シャーと語呂合わせのモーセという名をつけるのはおかしいという批判が聖書学者の間から出されています。

1章11節を見ますとイスラエルはピトムとラメセスを建設したという記述がありますが、イスラエルがエジプトで奴隷として重労働についていたのは、ラメセス二世の時代ではなかったかといわれています。エジプトでは、第18、19王朝の時代(紀元前15世紀から13世紀まで)に限って、王様の名前がラーメス(ラメセス)のようにM、Sが付きます。トトメス(トゥトモーシス)という有名な王も現れます。問題はこのMとSの発音です。モーシェーなのか、モーシスなのかは、エジプト語も子音だけで母音がないので、読み方がはっきりしないといわれます。エジプト語では、モーシスというのは「生む」という意味で、トゥトモーシスという名は、トゥトという神が生んだ、ラメセスなら、ラーの神が生んだ、そういう意味になるのです。だから、歴史的に研究する学者は、モーセという名はヘブライ語ではなく、エジプト語に由来すると主張しています。

その由来はともかくとして、モーセはいずれにせよエジプトの王子として育てられて、エジプト人としてあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする人物として成長したことだけは確かです。

 

2.契約を想起し、破れの中にいます神

このモーセが成長してどんな人間になったか2章11節以下に記されています。成人したモーセはある日、同胞が重労働に服し、一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人を打っている姿を目撃し、「モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。」ということが12節に書いてあります。聖書は、モーセという人間は、義侠心の強い人間であることを記す一方で、人殺しをしただけでなく、死体を遺棄し、その死体を隠して、証拠隠滅工作までした真にどす黒い過去を持つ人物であった事実を隠さずに報告しています。翌日は、ヘブライ人同士がけんかをしているのを目撃し、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方の仲間をたしなめて仲裁に入るわけですが、このヘブライ人は仲裁を拒んだだけでなく、モーセがエジプト人を殺した場面を目撃したことを語り、同じように殺すのかと語り、モーセはドキッとします。モーセはそれがファラオの耳に入ったと恐れて、逃亡するわけです。案の定そのことはファラオの耳に入り、ファラオはモーセを殺そうと捜査させたといわれています。

モーセは、その追っ手から逃れるためにミディアンの地に逃れます。そこに行くためにはシナイ半島を横切りアカバ湾の向こう側まで行かねばなりません。どんなに速く歩いても一週間では無理であろうといわれています。しかもそこは荒野の道です。モーセはそういうところに逃げて羊飼いになります。彼はそれまで王家にいたわけですからそんな生活をしたことがありません。そこで羊飼いで苦労して、この間に荒野生活を身につけます。そこでミディアンの祭司エテロの娘たちを羊飼いたちから守り水汲みを手伝ったという縁から彼のもとで暮らすことになり、エテロの娘ツィポラと結婚し、ゲルショムという子が生まれます。その名は、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)」に由来することが2章22節に述べられています。この出来事を記す2章には、モーセは自分の名を名のったというとい記述がありません。しかし、その身なりからエジプト人であると判断されていたことは19節から明らかです。なぜエジプトから来たのか、モーセは身を明かさず、暗い顔をして、毎日黙々と暮らしていたのではないかと思われます。

2章23節に「それから長い年月がたち」と記されていますので、ミディアン滞在の期間は5年や10年の期間ではなく、それよりもはるかに長い期間過ごしたのではないかと思われます。モーセを追っていたエジプトの王も死んだことが告げられていますが、「その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(2:23-25)と記され、モーセがミディアンにいる間もイスラエル人に対する苦役は続いていたことが明らかにされていえます。

このイスラエルの叫び声を聞かれる神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神として彼らと結んだ「契約」を覚え、それを思い起こされる神であることが、ここに記されています。イスラエルの叫びは神に届いたといわれています。神は苦難の中に生きるご自分の民の叫びを聞かれ、その祈りを聞かれるお方です。それだけでなく、与えた約束を想起される神です。400年以上経っても、自ら与えた約束を忘れず覚え続ける、神のこの記憶と想起の中で救いの道が用意され、導きが与えられていく道筋がここに示されています。

そして神がその救いを実現する為に用いられたのは、モーセという人間です。モーセは、殺人を犯し、その死体を砂に埋めて、それを隠そうとした暗い過去を持つ人間です。ファラオの追跡から逃れる為にミディアンの地に逃れ、祭司エトロのもとに身を隠して、自分の名も身分も明かさず暗い顔をして静かに、今までしたこともない羊飼いをして、荒野で黙々と生活しているそういう人間です。つまり破れの中でモーセは生きていました。そのモーセは、ある日、その羊の群を追って荒れ野の奥にある神の山ホレブにやってきて、燃える柴を見ます。柴は燃えているのに燃え尽きないので、不思議に思ったモーセは、「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」(3:3)といって、その燃える柴に近づこうとします。主は道をそれて近づくモーセをご覧になって、柴の間から、「モーセよ、モーセよ」(3:4)といって呼びかけられました。聖書の神は、こういう暗い過去をもっている人間、苦しみを背負ってどす黒くわだかまった過去を引きずっている人間に対して声をかけられるのです。一度ならず二度声をかけられる、破れの中を生きる人間をほ-っておかれない神、これが聖書の神の特色です。

この神は、モーセに、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とご自身を明らかにされて、モーセを呼んだ理由が、7節において、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」と述べられています。神は、民の悩みを見、叫びを聞き、痛みを知っておられる方です。聖書において神が見る、知るというとき、それは人間のどす黒い罪を含め、そのすべてを見つめ、その悩みのすべてを知ることです。誰にもいえないで口に出せずにいる人間の心の奥深くにある悩みまで知り尽くしておられるということです。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とモーセに語りかける神は、彼ら族長に約束した契約をいつまでも覚え想起される愛の神です。契約に対する愛を忘れない神です。この契約の愛に基づき、悩み苦しみを見、叫びを聞き、痛みを知るのです。それだけではない、「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」(3:8)といわれるお方です。破れの中にいる人間の低き所に自ら降って行き、救い出す愛の神です。そして約束の地まで「導き上る」と約束し、いつも共にいて導きを与える神となられます。この神は、アブラハムを召し出したときのように、モーセを召し出し、「行きなさい」といって、ファラオのところに遣わす、派遣する神です。それは、苦悩するイスラエルをエジプトから連れ出すためです。神はこの苦悩する民イスラエルを「わが民」といって、その無限の愛を示されています。

 

3.共にいます神

モーセは自分が口が重く、言葉の人でないのを知っていましたので(4:10)、言葉でファラオを説得して、しかもイスラエルを導く自信を持てません。だからこの主の呼びかけに戸惑いを覚えたので、「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」(3:11)と主にその困惑の言葉を述べています。

この困惑するモーセに与えられた主の言葉は、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(3:12)というものです。主はどんな時も、必ずモーセと共にてあなたを導くというのです。「必ずあなたと共にいる」という「これこそ」が、「わたしがあなたを遣わすしるし」だと神はいわれるのです。イスラエルがエジプトの国を出発した「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。」(12:42)といわれています。主は夜通し眠らずにモーセに引き連れられてエジプトを出発するイスラエルのために寝ずの番をされたというのです。それだけではありません。この荒野の旅の間中、「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」(13:21-22)といわれる導きをいつも共にあってなされたといわれています。「前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。」(詩篇139:5)という、いつも共にあって主の恵みが取り囲む導きがなされる救いが約束されているのです。

「わたしは必ずあなたと共にいる。」というしるしがこのように表されることを、この約束を聞いた時点のモーセはまだそこまで知りません。だから彼はまだ不安です。それでもモーセは、「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。」と主の召しに応答するのですが、その不安な心で、「彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」(3:13)といって主に尋ねています。

普通「その名は何ですか」と尋ねる時、英語ではWhoという疑問詞が用いられます。ヘブライ語ではこれに相当する語は「ミー」です。しかし、ここでは英語のWhatに相当する「マー」が用いられています。Whatで名前を聞くのは、名そのものを聞いているのではなく、その名前が何という意味を持っているかを聞いているのだと、ユダヤ人の哲学者マルチン・ブーバーは述べています。このモーセの問いに、神は、「わたしはある。わたしはあるものだ。」(3:14)と答えたと新共同訳聖書は訳しています。この「わたしはある」を、ブーバーは、名前そのものではなく、神の名前の意味、神の本質は何かと関係する言葉として用いられると解釈します。英語では、I am who I amですが、もっと判りやすく訳せば、I am He who existsという意味になるといいます。つまり後のIは繰り返しだから、それはHeという形に戻して考えるべきだというのです。そうすると、「わたしは本当に現に生きている、あるいは実在している者である」という意味になるというのです。

新共同訳は、「いる」というもっとプレゼンスを強く出す気持ちをこめた訳であるということができます。14節後半は、「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」となっていますが、「という方」は原語にはありませんので、ここは、「「わたしはある」がわたしをあなたたちに遣わされたのだ。」ということです。いずれにせよこの神の名は、3章12節の、「わたしは必ずあなたと共にいる」と結びつけてその意味を解釈すべきです。

そうするとここで神がモーセに伝えようとしておられるのは、人間がどうであれ、イスラエルの民が何であれ、神にいろいろ文句を言ってつぶやいたり、反対したりするということが民数記などに沢山か書かれていますが、そういう人間に対して、聖書の神は、お前が何であってもわたしはいるんだ、わたしは必ずあなたと共にいるんだ。わたしたちの中に下ってきて、一緒に生きてくださっているんだ。人生はただ傷ついてひねくれている。あるいは重いわだかまりをいつでも携えて生きていかねばならない。そういう人間にも神様は一緒にいるんだよと。それがここでいわれているモーセに現されている神、悩みをつぶさに見、叫びを聞き、下ってきて助け出して共に生きる。そういうことが聖書でいわれている、と左近淑(聖書セミナー№3「旧約聖書とそれを貫くもの」)は述べています。

聖書の神は、人間を捜し求める神、ついには独り子を人間に与えて十字架で失わせる、それほど共に生きた神、それが旧約聖書で既に言われています。新約聖書とそれがどうつながるかといえば、ヨハネ黙示録22章23節の「わたしはアルパであり、オメガである」に繋がると左近はいいます。ギリシャ語のアルファベットはアルファではじまりオメガで終わります。これをセム的な思考法で行くと、初めと終わりの両極端をいう場合には、初めから終わりまでずっと貫いている意味で、貫いてずっと共にいるのだということを新約聖書の最後でも神は明らかにしている、というのがわたしの聖書の読み方だと左近はいいます。これは大切な聖書の読み方だと思います。

神はそのようにいつもわたしたち共にいます方だということにこそ、救いがあります。それを知ることによって、どんなに辛い時にも立ち上がる力が与えられます。希望が与えられます。

 

4.愛の神(ホセアの問題)

しかし、この選びの民はしばしばその事実を忘れる生き方をしました。主はモーセに、イスラエルのことを「わが民」(アンミ)と呼んで、「わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(3:10)とモーセに命じています。このようにイスラエルを「わが民」としていつも共にいて愛している。しかし、カナン定着を果たしたイスラエルはカナンの農耕文化、カナン宗教の豊穣儀礼を受容するようになり、バアル宗教への信仰に傾斜していきます。ホセアという預言者はそれをイスラエルの堕落と認め、それに対して淫行と姦淫と呼んで厳しく断罪しました。ホセアは北のイスラエル王国で活躍した唯一の記述預言者です。その活動は、ヤロブアム二世(前787年-747年)の治世の終わりの頃にはじまります。それは北王国最後の繁栄の時代で、ホセアはそれを体験しています。しかし、この繁栄は偽りの繁栄で、王の暗殺や革命の続く政治的混乱と宗教的・倫理的不道徳が蔓延する時代でありました。彼の活動から30年もしないで王国は滅亡します。

このホセアは、神から淫行の女として評判のゴメルをめとるよう命じられ、その女性をめとったといわれています。妻のゴメルはホセアと結婚してからも淫行癖はやまず、ホセアは苦しみます。そのホセアとゴメルの間に二人の子が生まれますが、最初の子には、ロ・ルハマ(憐れまぬ者)と名づけよ、と命じられています。そして次に生まれた子には、ロ・アンミ(わが民でない者)という名をつけるように命じられています。神はモーセを召し出し、イスラエルの民を救い出して以来、ずっとイスラエルを「わが民」(アンミ)として扱ってきましたが、ホセアの妻ゴメルのように、イスラエルの民はバアルの神に仕え、主に仕えない宗教的姦淫状態にあり続け、神を悩まし続けたのです。「あなたたちはわたしの民ではなく/わたしはあなたたちの神ではないからだ。」(1:9)とホセア書において、神と訳されている語には「エフエ」(ある者である)が用いられています。これは出エジプト記3章14節の「わたしはある(エフエ)」と同じ語が用いられています。ここで神が「わたしはあなたたちの神でない」といい、イスラエルを「ロ・アンミ」(わが民でない)というとき、神と民という関係の完全な分離、断絶が宣言されているということです。つまり。もはや神はイスラエルと共にいますことはないという宣言です。神がその場所に共にいますという理解信仰があるから、その場所での礼拝というのが成り立ちます。神殿とか寺社というのはそういう信仰のもとで建てられています。言い換えれば、そこに神が臨在されないということであれば、そもそも信仰というのは成り立たないわけです。ホセア書において、ロ・アンミという言葉において、またわたしはあなたたちの神でないということにおいて宣言されたのは、そういう信仰が成り立たなくなる厳しい現実です。

これこそ神がなさる最も厳しい裁きです。しかし神はこの言葉を持って、この民を本当にそのように扱うことを望まれたのかというと、事実は全く逆です。神は、本当にこの民をアンミ(わが民)として扱い、ご自身がある(エフエ)であるということをいつも示そうとされているのです。ホセアは自らの苦悩の中から、荒野時代のイスラエルを想起し、そこにおいて示された神との関係に立ち返るよう語り続けています。

ホセア書の11章には、次のような主の言葉が記されています。

1 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。

8 ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。

9 わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。

ホセアは苦悩しながら姦淫の妻ゴメルを愛しました。神は、同じように背くイスラエルをわが民(アンミ)として愛し続けておられます。ここに救いがあります。神がこのように愛し続けてくださらなければ、わたしたちの救いはないし、人生の希望はありません。イスラエルを選び、モーセを召し出し、彼を遣わす神は、このように私たちを、わが民(アンミ)としていつも愛し、「わたしは必ずあなたと共にいる」という約束を持って、それを実行してくださる神です。この神は、わたしたちの罪、わたしたちの弱さや苦悩のすべてを見つめ尽くしつつ、救い出すために御子をも与え、十字架に死なせてまで救い、その自己犠牲をもってともにいていつも助け出される神です。モーセに現れた神、その同じ神が、イエス・キリストにあってインマヌエル(わたしはあなたと共にいる)ということをわたしたちの間に実現してくださっているのです。

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